
投稿日 2009年09月12日
1543年の鉄砲伝来、1549年のフランシスコ・ザビエルの来日、この二つの出来事は日本史に於いて計り知れないほど大きな意味を持っています。 コロンブスのアメリカ大陸「発見」の2年後の1494年、ローマ法王庁は当時のヨーロッパ世界の二代強国スペインとポルトガルに驚くべき特権を与えました。地球をアフリカ大陸の西側で南北に分け、新たに発見された非キリスト教徒の土地を、この境界線の東側はポルトガル領、西側はスペイン領とする、というものです。これを条約が結ばれたスペインの町の名にちなんでトルデシリャス条約といいます。
その後スペインはアステカ帝国とインカ帝国を滅ぼして中南米とフィリピンを手中に収め、一方ポルトガルはブラジル、インド、マラッカ、マカオを植民地化し、条約から約半世紀後、相前後して、東の果ての「黄金の国ジパング」に到達したということになります。それが日本にとって初めての西欧との直接的な出会いでした。
日本にとって幸いだったことは、スペイン人やポルトガル人たちが頻繁に日本にやってくるようになった頃、日本は戦国時代の真っ直中で既に10万丁もの鉄砲が国内に行き渡り、戦闘に明け暮れる武士たちの士気は高く、彼等が日本を植民地化するには手強い相手と見なしたことでした。もし彼等がもう少し早く、例えば足利義政が治める室町末期に日本に到達していれば、日本は中南米の国々のようにポルトガル語かスペイン語が国語になっていたかもしれません。
その後もヨーロッパの国々の世界各地への侵略は続いてゆきますが、その背景には、白色人種は有色人種よりも優れており、キリスト教に基づく西欧文明は他のあらゆる文明よりも優れている、という彼等の強い思い込みがありました。まだ文明を知らぬ原住民にキリスト教の教えを伝え文明化するという大義名分のもと、彼等は武力で奪った土地の人々を支配し、収奪すると共にその地の宗教や言語や文化をも抹殺してゆきました。
このようなヨーロッパ的な覇権主義は、例えば多民族・多宗教を包括していたオスマン帝国(1299-1922)の在り方とは大変に違うものでした。アナトリア(トルコ)の地に興ったオスマン帝国はやがて東欧、バルカン半島、エジプト、イランをのぞく中東の全域にまたがる大帝国となってゆきますが、領内のユダヤ教、キリスト教、ギリシャ正教などの信徒たちにはイスラム教徒としての行いを定めたイスラム法を強制せず、広範な自治を認めていました。叉一部の直轄地をのぞいては、現地の有力者に統治を任せ、税金だけを納めさせるという緩やかな支配が行われました。
一方、東アジアでは、古代から中国と周辺諸国との間には「册封体制」が存在していました。これは中国が、朝貢してくる周辺の国々と儒教的な中華思想に基づく君臣関係を結び、それによって国際秩序を保っていたものですが、それはあくまでも東洋的な秩序感覚に基づく形式的なもので、武力による実行支配も、内政干渉もありませんでした。
こうして西アジアや東アジアがいわゆる「アジア的停滞」の中にたゆたっている間にも西欧は発展し続けました。ルネサンス、宗教改革、数々の革命を経て、やがて立憲君主制や議会制民主主義という優れた政治システムを生み出し、それは法の下での全ての人々の自由と平等を謳う民主主義の思想へと繋がって行きました。叉驚異的な科学技術の発達は世界の様相を一変させてゆきました。
日本が明治維新によってようやく世界に門戸を開いた19世紀半ばは帝国主義全盛の時代でした。産業革命を経たヨーロッパ各国は資源と共に余剰物資の販路を求めて植民地の拡大に狂奔していました。
圧倒的な西欧的力の論理が支配する世界にデビューした日本が、植民地にされないためには日本を一挙に近代化して富国強兵を行わなければならない、と考えたのは、無理からぬことでした。日本はその当時のヨーロッパの強国、イギリス、フランス、ドイツをモデルとして、猛烈な勢いで国家の近代化に走り、中央集権制や立憲君主制や議会制民主主義といった西欧の「国のかたち」を模倣すると共に圧倒的に遅れていた科学技術の分野でも西欧を猛追しました。
これほど速やかに「近代国家」へと脱皮した国が他にあったでしょうか。それもまた日本人の優れた特性であることは間違いありません。
しかし日本が模倣したのは単なる近代国家としての制度や科学技術や文化だけではありませんでした。神道と仏教と儒教が混在し融合していた日本に、西欧文明の中核であるキリスト教を模倣して 皇祖神である天照大神を最高神とし、その直系の子孫である天皇を現人神とする、極めて一神教的な色彩の濃い国家神道を創設したのです。そして古事記・日本書紀を聖典とし、日本は地球上で神が降臨した唯一の地であり、大和民族は神から選ばれて、その神の国を世界中に広める聖なる使命を担っているとしました。
本来日本は多民族国家であり、多様な文明・文化の融合体でした。そこに大和民族という単一民族を作り出し、そして大和民族を絶対視するあまり、中国や朝鮮などの人々に蔑視感情を抱くようになり、彼等を征服し統治し救済しなければならない人々と見なして、侵略を「聖戦」として正当化したのです。それは将にキリスト教文明の国々が植民地の獲得を正当化するために使った論理でした。そして日本は統治領となった台湾や朝鮮や南洋諸島などで、日本語を強制し、天照大神が祀られた神社を建立し、時には名字まで日本風に変えさせるという、西欧スタイルの植民地支配を行ったのです。
神道とはもともとは豊かな自然と清らかな水に恵まれた日本で、万物に神の存在を感じ、自然への畏敬の念を感じる人々の心が生んだ自然信仰であったといわれます。6世紀初頭に中国から仏教が伝来して、日本の社会に深く浸透するようになってからも、多神教的な風土で、和を尊ぶ日本では、神道の神々はしばしば寺院に共に祀られて神仏習合の形となり、あるいは氏神を祀る神社としてそのまま土地の人々の信仰の対象になり、一方で天皇の皇祖神を祀る伊勢神宮のような神社もありました。「神仏に祈る」というのは人々のごく自然な心の在り方でした。
明治政府が行った、激しい廃仏毀釈を引き起こすことになる神仏分離令や、内務省の管理下に置かれていた神社の、合祀令による統廃合は、これまでの日本の国柄や伝統を根底から破壊するものでした。19万あった神社は一挙に14万にまで減らされますが、その時、地域の人々の信仰の対象であった氏神様は追放され、鎮守の森も潰されました。鎮守の森は人間が立ち入ることの出来ない神の領域で、自然の中に神が宿ると信じた日本人の感性そのものでした。それは自然を征服し改造することが進歩であると考えた西欧文明の自然観の対極にあるものでした。
これらのことは、西欧の力と論理が支配する世界の中で西欧に互して強国にはい上がろうとした日本の悲しさであったと思います。
若い頃の私にはこのような問題意識はありませんでした。ひたすら西欧文明に憧れ、文学や音楽を初めとする様々な西欧の芸術に魅せられて、大学を卒業するとすぐにフランスに渡りました。そしてなによりも驚かされたのはヨーロッパ各都市の美しさでした。とりわけ私が住んだパリはフランス文化の精髄といえるものでした。ローマ時代から現代に至る様々な様式の建築群が完璧な調和を醸しだしてこれがフランス人の歴史であり美意識なのだと静かに主張していました。セーヌ川や並木道の木々といった自然物でさえ美に対する人間の意志の前で見事な装飾品となっていました。
帰国後も日本とヨーロッパを行き来する生活が続きましたが、東京に帰ってくる度に、東京の無秩序で無国籍な様に衝撃を受けたものでした。これほど豊かな文化と繊細な美意識を持った日本人の作る都市が何故これほど醜いのだろう。その頃茶道のお稽古のために鎌倉に通っていましたが、お稽古の後に訪れる鎌倉の寺々の、周りの自然と溶け合った佇まいの美しさは、私の中で、現代の日本の醜悪さと鋭く対峙する、一つの日本の美の象徴となってゆきました。そこに私が感じたのは過去と現代の日本の間に横たわる非連続性であり、多分それが、私が「日本の蘇生」という本を書くことになった一つの出発点であったと思います。
例えばフランスを旅すると、イル・ド・フランス、ブルゴーニュ、ノルマンディー、プロヴァンス、南仏、等、それぞれの地方にはそれぞれの自然と風土、歴史、街の佇まい、建築様式、色彩、味覚、農作物や生活スタイルなどがあり、そういったものを何を置いても守り抜く、という国とそこに住む人々の固い決意のようなものを旅行する度に感じたものでした。それはヨーロッパの国々の諸都市に共通する精神でした。けれども彼等がそれを守り抜けたのは、つまりは西欧が世界で覇権を握っていた間、一度も他の文化圏の価値観を受け入れざるを得ないという事態にならず、植民地になることもなかったという事実が大きいのではないだろうか、とも考えました。日本が本来は守るべきであったのに守れなかったもろもろの物ー価値観や倫理観や文化などをいまこそ日本は取り戻さなければなりません。
ここ10年ほど、そしてとりわけ2001年以降、イギリスから覇権を引き継ぎ、冷戦に勝利して、世界で唯一の超大国となったアメリカの覇権が揺らぎだしている、ということを強く感じるようになりました。と同時に世界は多極化へと向かっており、500年ほどの間、欧米の国から国へと引き継がれて、欧米の世界支配を可能にした「覇権国」はアメリカをもって終わるのではないだろうか、と思える状況になってきました。つまり私たちは色々な意味で、数百年に一度の世界史の大変動期にさしかかっている。そして世界的な価値観の大転換が興りつつある、という確かな手応えがありました。
それは私には日本にとって遂に巡ってきた大きなチャンスのように思えました。戦後アメリカに間接統治されて実質的なアメリカの植民地となり、経済大国であり続ける以外の確固とした価値観を見いだせず、国民が国の未来に対して希望を持ち得ないこの国は、実は大いなる可能性に恵まれているのだと私には思えたのです。日本の辿ってきた歴史を検証し、明治維新以来の国の歪みを検証し、その上で、日本がこれから具体的にどのような国家、どのような国のかたちを目指して行けば、若者たちが希望を持てるような日本の未来が開けるのだろうかと模索し「日本の蘇生」という一冊の本にまとめ昨年7月に出版致しました。
戦後の日本では、国民を戦争へと駆り立てたあの戦前の超国家主義の反動で、自分の国を愛する、ということを「右翼的」として排斥する傾向が確かに一部の「左翼」の人々の間にありました。
一方で「右翼」の人々は未だに日本が戦前に行った侵略戦争を正当化し、中国を「支那」と呼んで優越感に浸り、日本が核武装し、再び軍事大国として世界に存在感を示すことを夢見ているようです。けれでも、大量破壊兵器の恐怖に怯え、人々をより効率的に殺傷できる様々な種類の化学兵器が空からばらまかれる現代の戦争に英雄的な要素などなにもありません。大量に殺傷されるのは常に何の罪もない一般の市民たちです。唯一の被爆国である日本の世界史的な役割は、核の廃絶と残酷な化学兵器の禁止を世界に、とりわけ核保有国や武器の輸出が国の主要な産業であるような幾つかの「強国」とその国民に強く訴えることではないでしょうか。
右翼とか左翼といったイデオロギーも所詮西欧の生み出した論理に過ぎず、それにとらわれない多くの人々が勇気を持って声を挙げることが大切な時期ではないでしょうか。
およそ世界中のまっとうな人々は、郷土を愛し、国を愛し、その風土や歴史や文化や伝統に愛着を抱いているものです。それは人々を戦争へと駆り立てる「ナショナリズム」とは区別しなければと思います。
日本で700年近くも政治に携わってきた武士階級は、仁・義・勇・礼・忠といった倫理観を何よりも大切にし、金銭を賤しみ、不名誉よりは名誉の死を選ぶという死生観を持った人々でした。武士道は、鎌倉武士たちの「名こそ惜しけれ」という名誉心と神道、仏教(禅宗)、儒教が融合した極めて日本的な精神文化であり、江戸時代には石田梅岩の石門心学などを通して広く庶民にも共有されていました。ですから私は長い間、「日本では汚職や腐敗のない政治は可能な筈だ」と思い続けているのです。多くの人が「権力に腐敗は付き物」と考えているようですが、げんにオランダやフィンランドなど、政治腐敗がないといわれる国もあります。日本人のメンタリティーを考えても、「日本人には無理」と諦めるのは早いと思うのです。その点に関しては、戦後ずっと日本がお手本としてきたアメリカは決して規範とはなり得ない国でした。
志の高い、今まで政治とは距離を置いてきた人々があえて政治の世界に飛び込んで日本の未来への理念と方向性を示し、私利私欲や党利党略ではなく本当に国民のための政治を行って人々の信頼を取り戻せばきっと日本は立ち直れる。「日本の蘇生はそこから始まる」と信じています。
豊かな四季に彩られた美しい自然に恵まれ、類い希な美意識で磨き抜かれた繊細な文化が実はきちんと継承され、本来勤勉で礼儀正しく優れた資質に恵まれた国民がいるのですから、世界の国々が一つの規範とするような国造りができないはずはないではありませんか。