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私のステンドグラス

投稿日  2010年01月20日

 60も半ば近くになって「趣味は木登り」などと言えば「変人」と思われるに違いない。実際私自身自分を相当変わっている、と思わぬではないが、今の私にとって、地上4,5メートル程の木の上が一番安らげる場所の一つであることは確かである。
 といっても私はなにも好きこのんで木に登る訳ではない。もともと常に自然に触れていたいという欲求が強く、若い頃は夏は伊豆の海で飽かずに朝から晩まで海に浸かり、岩場で潜って魚を追いかけ、海の様々な生き物に見とれ、時に岩壁によじ登って刻々と変わる海の色を楽しみ、日没に太陽がゆらゆらと沈んで行く時の空をうっとりと眺めた。冬はスキーの魅力に取り憑かれて、吹雪も氷点下の寒さもおかまいなくゲレンデや林の中を一日中滑っていた。
 けれども目が不自由になって、私には景色というものがほとんど見えなくなってしまった。自然に触れるには身近な自然にさわって感触を確かめ、四季折々の香りを嗅ぎ、風や小鳥や虫や蛙たちが発する音に注意深く耳を傾けるしかない。

 私が登るのは庭の片隅に生えているもっこくの木で、ずっしりとした枝振りは安定感があり、葉は一年中密に茂って夏でも冬でも濃い影を作る。
 その木の上で私は風を感じ、小鳥たちの囀りを聞き、季節の香りを吸う。
 そして木の葉ごしに差し込んでくる色とりどりの光の美しさに魅了される。
 見えるというよりも感じると言った方がよいかもしれない様々な色、青、赤、黄色、橙色、桃色、紫色等が私の周りに妙なるハーモニーを作り出す。それはいつも私に、フランスのゴシックの大聖堂の内部を満たしていたステンドグラスの色と光を思い出させる。
 その光に包まれながら私がいつも抱くのは、地球というのは将に奇跡の星だ、という感慨である。太陽からの距離がもう少し遠くても近くても、地球に生命は誕生しなかっただろう。かくも多くの命を育んでいる、多分広大な宇宙に二つとはないかもしれない愛おしい星・・・。
 遙か彼方の燃えさかる太陽から降り注ぐ光がかくも美しいのは、神の恩寵なのであろうか。
 普段は全く宗教とは無縁の私が木の上では奇妙に「ある絶対的なものの存在」を感じてしまう。
 もしかしたらステンドグラスの作者たちも、森の中で天から降り注ぐ光の美しさに神の恩寵を感じて、それを大聖堂の中に再現したいと願ったのかもしれない、などと考えたりする。

 留学時代、通訳のアルバイトをしていた私はある時、日本のステンドグラス作家の女性を案内してシャルトルを訪れ、カテドラルを見学した後、その裏手にあるステンドグラスの工房にお供したことがあった。その時の彼女の語ったことが印象に残った。
「現代の科学技術をもってしても、シャルトルのステンドグラスの色彩を再現することは不可能なんですよ。彼等がどうやってあのような色を出せたのか分からない」

 パリにはローマ時代から現代に至るまでのあらゆる様式の建築があり、それ等が見事に調和して類い希な美しさを誇っているが、私にとってはノートルダムの大聖堂に優る建造物はなかった。その冒しがたい荘重な美しさと存在感は私を圧倒した。よく中世は暗黒の時代などといわれる。確かに科学技術に関してはそうであったかもしれないが、芸術に関しては、神という絶対的な存在をひたすら信じる者のみが到達し得る「高み」があるのではないだろうか。パリの街を歩きまわり、様々な角度からノートルダム寺院を眺めながらよくそんなことを考えた。

 今の私にとって自然との一体感を感じられる場所。この穏やかな気候の、四季の移り変わりが繊細な日本に生まれてきて良かったと感じられる場所。

 だから私は寒い冬の日にも朝のひとときをもっこくの木の上で過ごす。
 メジロや鵯や四十雀たちが鋭く囀って辺りの静寂を破り、野良猫たちが早くも雌を求めて鳴く。そのうちに梅の蕾が綻んで芳香が漂ってくることだろう。
 私のささやかなステンドグラスの光に包まれながらいつも思う。世界は美しい。


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