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非核三原則の形骸化ーダニエル・エルスバーグの証言

投稿日  2010年02月15日

 鳩山政権が発足してから5ヶ月がたとうとしていますが、その間私共は総理の理想主義と現実政治との乖離を見せつけられてきました。とりわけ日米同盟に関しては「対等な日米関係」どころか、益々アメリカの様々な意味での日本支配は強まり、アメリカの軍事行動にいよいよ日本も引きずり込まれてゆきそうな方向性が見えてきています。
 そして岡田外相が9月16日の組閣の翌日の未明に外務省藪中事務次官に突きつけた「核持ち込みに関する密約」などについての調査報告も、11月末という期限はとっくに過ぎ、今や国民に情報を開示して外交の透明性を高める、という当初の意図から大きく逸脱して、核密約を如何に正当化するか、に焦点が移っているようです。
 世界で唯一核爆弾を投下され、その惨禍を経験した日本が、世界に向かって核爆弾の危険性と被爆の悲惨さを、そして核の廃絶を訴えるのは日本に与えられた世界史的な使命、と私は固く信じているのですが、そのような考え方はとかく日本社会では「左翼的」というレッテルを貼られてしまうようです。
 日本の領域に於いて核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を国是としながら、アメリカの核の傘に守られるという大いなる矛盾を冒してきた日本で、原子力潜水艦などの「寄港、領域通過」が常時行われていたであろうことは国民はうすうす知っていても、自民党政権はこれまで何度も頑なに否定し続けてきました。民主党政権は自民党がその矛盾から国民の目をそらす為にひた隠しにしてきたアメリカとの「密約」をむしろ積極的に開示して国民に現実を受け入れさせよう、という作戦のようです。1月19日の朝日新聞で長島昭久防衛政務官は、
「これまでは、日本の非核三原則と米国の拡大抑止をバランスさせる歴史の知恵があったと思う。米国の拡大抑止に依存している現状を考えたときに、密約の調査結果は今後の政策を縛るものであってはならない。大事なのは非核三原則の意味を明確化することだ」
と語り、また外交官OBの岡本行夫氏は、
「僕は日米間に『密約』はなかったと思う。あったのは認識のずれで、それに薄々気づいていたが確認しなかったということだろう。米国の解釈では一時寄港や領海通過は『持込み』ではない、だから非核三原則は守っていると。実際、日本が言っているのは3・5原則だ。本来の3原則に一時寄港と領海通過という0・5がくっついている・・・」
と語っています。ちなみに鳩山総理は、自らの政策顧問を、アメリカに受けが悪い寺島実郎氏から、外交官OBの岡本行夫氏にすげ替えた、と噂されていますが、岡本氏のこのような発言は将に「アメリカ好み」ということなのでしょうか。
 1967年12月、「非核三原則」を国際社会に向かって高らかに宣言し、1974年には佐藤栄作元首相がその功績でノーベル平和賞まで受賞しながら、アメリカの核の持ち込みを黙認していた日本政府のやり方を「歴史の知恵」とはあっぱれなすり替え、と驚きますが、実はこれはアメリカ側はとっくに認めていたことであり、「核搭載艦が日本に立ち寄るとき、いちいち核弾頭をはずすことはない」というアメリカ側の議会証言もあります。
 けれどももし「寄港や領海通過」だけでなく、沖縄に核が配備されていたとしたら、それでも長島昭久防衛政務官や岡本行夫氏は「それを国民に隠したのも『歴史の知恵』非核三原則と矛盾しない」と仰るのでしょうか。あるいはこれは「密約」などではなく、本当に日本政府は知らされていなかったのでしょうか。

 知人のジャーナリストの方が、「世界」2010年2月号に掲載されたダニエル・エルスバーグ 回顧録 <アメリカの凶器・核の時代 その真の歴史を暴く>のコピーを送って下さいました。
 実は私は、エルスバーグといえばペンタゴンペーパーズの漏洩者、くらいの知識しかありませんでした。今回この文章を書くにあたり調べてみて、彼の信念と良心に基づいた勇気ある行動がアメリカ社会を動かしてベトナム戦争の早期終結に繋がっていった経緯を知って感銘を受けました。

 今回私が「回顧録」を読んでなによりも驚いたのは、エルスバーグが沖縄の嘉手納基地で見て触った、という水素爆弾についての記述でした。その事実を少しでも多くの方に知って頂きたく、以下に紹介いたします。

 1959年の秋、エルスバーグはランド研究所が組織した専門調査会の一員として沖縄にいました。その時目撃したことを次のように書いています。

「私自身小型の水爆をいくつか見たことがある。それは1,1メガトン、すなわち110万トンの高性能爆弾に匹敵する爆発規模のある水爆で、それぞれ一発が第二次世界大戦で使用された全爆弾の爆発威力合計の半分に相当した。私が見たのは沖縄の嘉手納空軍基地で、発令10分以内に出撃できる警戒態勢にあった。10人乗りのF100戦闘爆撃機の下部に搭載されていたものだ。ある時戦闘機に搭載される前の水爆の一つに触ってみたことがある。涼しい日だったが、その水爆の滑らかな金属面は内部の放射能で温かかった。人肌のようだった。
 嘉手納ではパイロットたちは警戒態勢を取る機内に待機したり、滑走路上で警戒任務に就いたりしているわけではなかった。彼等は基地内の売店であれ自分の兵舎であれ何処にいることも許可されていた。運転手が常時付き添い、警報が鳴ると数分内で滑走路に戻れるからだ。少なくとも一日一回警戒訓練をしていた。担当官がその日のリハーサルの時間を私たち調査団が決めて良いと言った。私たちの団長が「よし、今だ」と言うと車の警報が辺り一帯に鳴り響きほとんど瞬時に滑走路へ続く道全てにジープが急カーブを切りながら現れ、滑走路に着くやパイロットが飛び降り、ヘルメットや飛行服のベルト類を締めながら操縦席に大急ぎで乗り込んでいった。10機のエンジンが始動した、ほとんど同時にだ。
 一発の水爆で大きな都市を壊滅できた。」

 広島・長崎に投下された原爆とは比較にならぬほどの破壊力を持つ、臨戦態勢の爆撃機に搭載されていたこれらの水爆はその後どうなったのでしょうか。
 大メディアが一切報道しようとしない在日米軍基地の核の存在を、青森県の日刊紙「東奥日報」の斉藤光政記者が2008年9月に出版した「在日米軍最前線」(新人物往来社 記者が選ぶジャーナリスト大賞受賞)で明らかにしています。
 同書によれば「嘉手納基地の4,000m滑走路と県道74号を一つ隔てた東端の弾薬庫入り口部分に核貯蔵庫があり、最低でも200個以上核弾頭が貯蔵されていた」
 斉藤記者はアメリカに滞在してアメリカ軍の機密文書を調べ、日米の関係者に丹念に取材して、日本で初めて嘉手納基地の核の貯蔵場所やその数を特定したとのこと。
 そして嘉手納基地の核は青森県の三沢基地のほか、入間、小牧、板付に運ばれ、実際の訓練に使われていることを同書は明らかにしているようです。(まだこの本を読んでいないのでインターネットのこの本を紹介している幾つかのページを参照しました。斉藤記者とその活動を支える東奥日報のジャーナリズム魂と勇気に心からの敬意を表します)

 この核貯蔵庫の存在は沖縄の人々にとっては周知の事実だったのでしょうか。目取真俊という方の「沖縄・ヤンバルよりー海鳴りの島から」というブログに次のような一文がありました。
「沖縄の戦後史を少しでも知っている者ならすぐに、1968年11月19日に起こったB52の墜落事故を思い出すだろう。離陸寸前に爆発、炎上した同機がもう少し先で墜落していたら、嘉手納弾薬庫の核兵器貯蔵施設を直撃したかもしれない。当時の沖縄人はそう考え恐怖に襲われた。」
 米軍基地や核に関する事柄は余りに不透明で、調べ出すと私共はほとんどなにも知らされていないことに気づいて呆然とします。

 さてエルスバーグの回顧録に話を戻しますが、この回顧録は1961年の春、「大統領以外極秘」の書類を目にするところから始まります。それは一週間前、J・F・ケネディから統合参謀本部宛に送付された下記のような質問状に対する回答であり、エルスバーグはその起草者でした。
 
 「諸君の全面戦争計画が計画通り実行された際にソ連と中国に於ける死亡者数はいかほどになるか」
 グラフで示されていた最小死傷者数は2億7500万人。中ソだけでなく、放射線降下物の影響を受ける他国全てを含む世界的な全明細はおおよそ6億人。
 当時のアメリカはこれだけの膨大な死者数が予想される核戦争に備えて日々臨戦態勢にあったということです。

 エルスバーグが沖縄で見たものよりずっと大きな熱核爆弾が戦略空軍の指揮下、重爆撃機と中距離ミサイルおよび大陸間弾道ミサイルに搭載されていたが、それは「長崎を破壊した核分裂爆弾の1,000倍もの威力。2000万トンのTNT爆弾と同等の威力。米国が第二世界大戦で投下した爆弾総トン数の10倍。」
「兵器庫にある500ほどの爆弾の各々が25メガトンの爆発威力を持つ。これらの弾頭の一つひとつが、人類の歴史上全ての戦争で爆発した爆弾や砲弾全部より大きな威力をもっていた。」

 アメリカは人類史上初めて広島と長崎で原爆を投下し、その凄まじい破壊力と長期に渡って人体を蝕み、環境を破壊する核の恐怖に世界中が震撼しました。しかしアメリカにとってはその威力は十分ではなかったようです。冷戦下その1,000倍もの破壊力を持つ水爆を科学者たちに開発させ、国力にものをいわせて一度戦端が開かれれば6億人もの人命を極めて短期間に奪うことのできる万全の戦闘態勢を布いていたのです。もちろんその態勢の一角に沖縄の嘉手納基地がありました。将に狂気の沙汰であり、覇権国の奢りです。
 冷戦下ソ連と対峙するためにはやむを得なかった、という意見ももちろんあるでしょうが、エルスバーグも別のところで指摘しているように、軍産複合体などの要請によって、ソ連の脅威はしばしば誇張された、という指摘もよく目にします。

 エルスバーグはそれから10年後、内部からベトナム戦争を告発し、それ以降反戦と核の廃絶の為の運動に身を捧げることになります。
 オックスフォード、ケンブリッジを卒業したエリートで、ランド研究所(政府や軍に常に多くの人材を送り込んでいるアメリカの代表的なシンクタンク)から国防総省に出向してアメリカの核戦略やベトナム戦争遂行の為の戦略に関与する立場にあった彼が何故国家反逆罪で終身刑にも処せられかねない行動にでたのでしょうか。インターネットの「雑記帖」という政治ブログに次のような記述がありました。

「1967年、国防省の官僚だったエルスバーグ氏はロバート・マクナマラ国防長官のオフィスで、アメリカの北ベトナム侵略計画を練っていました。その時、ペンタゴンの中に入ろうとした反戦運動家たちが棍棒で打たれ、逮捕されて連れていかれるのを、彼は窓から見ました。
のちにエルスバーグ氏はその時のことを回想し、こう証言しています。
『私は自分の胸に聞いた。この人たちは自分の良心に忠実に生きている。私がそうしたらどうなるだろう』
エルスバーグ氏は『ペンタゴン・ペーパーズ』を公にすることにしたのです。」

 国防総省の中枢にいたエルスバーグは当初からこの戦争に疑問を抱いていたようですが、最高国家機密である7000ページにも及ぶペンタゴンペーパーズに触れて、軍と歴代政権が勝利の見通しもないまま故意に戦線の拡大を続け、国民を欺いて戦争を泥沼化させていったことが如実に記されていることを知り、戦争の早期終結のためにこの文書の漏洩を決意します。まず信頼するニール・シーハン記者のいたニューヨークタイムスに持ち込んで、同紙が1971年6月に連載を開始。 諜報活動取締法や国家反逆罪などをふりかざす政府の脅しにもかかわらず、ワシントン・ポストなど他紙も続々と掲載に踏み切ります。ニクソン政権は「国家安全保障の脅威になる」として、掲載の差し止めを求めましたが、連邦最高裁は棄却。米国憲法の修正第一条(言論の自由)をめぐる歴史的判決となりました。
 一旦地下に潜ったエルスバーグは窃盗、情報漏洩などの罪で起訴されましたが、ウォーターゲート事件捜査の過程で政府の側の不正が明らかになって不起訴となります。
 
 こういった一連の経過を辿ってゆく時、そこにアメリカ民主主義がまだあの当時は健全に機能していたことにある種の感動を覚えます。
 また真の国益とはなんなのか、ということを考えさせられます。
 エルスバーグの勇気ある行動はもちろんのこと、権力に敢然と逆らって掲載を続けたニューヨークタイムズやワシントンポストなどのマスコミ。「国民の知る権利」を尊重した最高裁判決。それらが人々に反戦への意識を目覚めさせ、ベトナム戦争の早期終結へと繋がり、何十万もの命を救うことになりました。
 
 間違った情報に基づき、国連総会の決議を待たず、世界中で巻き起こった反戦の声に耳を貸さず先制攻撃に踏み切ったイラク開戦を挙げて熱狂的に支持した21世紀のアメリカのマスコミを思うと隔世の観があります。

 民主主義がきちんと機能しているかどうか、の一つの基準はマスコミの質にあると思うのですが、その点で日本のマスコミは甚だ心許ないと思わざるを得ません。とりわけことアメリカに関して日本のメディアは異常なほどに自己規制し、様々なタブーの存在を感じます。
 米軍基地という治外法権をこれほど多く日本全土に抱えるこの国はやはり真の独立国とはいえないのではないでしょうか。


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