
投稿日 2011年06月24日
震災から100日余りが過ぎようとしているのに、被災者の方々の置かれている先の見えない状況は遅々として改善されず、福島原発の事故はいよいよ深刻さを増し、やりきれなさが募る日々ですが、その間にも国際情勢は日々変化しています。とりわけ中東では、チュニジアに続いてエジプトでも、民衆の蜂起が独裁者を倒す、という将に革命と呼ぶにふさわしい、思いもよらぬ劇的な展開を見せ、それが、リビア、シリア、イエメン、バーレーンにまで広がり、リビア、シリアは内戦状態、バーレーンにはサウジアラビア軍が侵攻して民衆デモを弾圧するなど、予断を許さない状況が続いています。
冷戦が終結した頃から中国の改革・開放を一つの契機として世界が大変動期に向かいつつあるのが感じられるようになりました。それはごく端的に言ってしまえば、15世紀末、大航海時代以来の欧米の世界支配の終焉ということなのですが、その流れが一挙に加速したように思えたのが、911同時多発テロとその後の展開でした。
とりわけ中東に大きな変化が起こるのではないか、という感触を強く抱くようになりました。
冷戦終結後の1996年に発表されたサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」は欧米とイスラム世界の衝突が不可避であるかのような雰囲気を醸成し、「テロとの戦い」における敵はつまりはイスラム過激派であり、最初から泥沼化することが予想されたイラク戦争を始めたブッシュ大統領はそれを十字軍になぞらえました。少なくとも三兆ドル以上といわれる莫大な戦費(ジョゼフ・スティグリッツコロンビア大学教授著 世界を不幸にするアメリカの戦争経済―イラク戦費三兆ドルの衝撃)そして2003年から2008年までの約5年間で六五万五〇〇〇人以上といわれるイラク人の犠牲者数(イラク人の死者数に関しては色々調べましたが、これは昨年3月のブログ「911同時多発テロの真相とアメリカの戦争」で採用した、イギリスの権威ある医学雑誌 「サンセット」に発表された論文の数字)といわれるこの大義なき侵略戦争や、常にイスラエル寄りのアメリカの姿勢が、この地にやがては地殻変動を起こすのではないだろうか。
「日本の蘇生」のpart 1 では、フランス人ジャーナリストによる日本史を軸とした歴史を書きましたが、最後に二〇三〇年までの未来史を書きました。その中東の部分は下記のようになっています。
「その変化は、戦後アメリカの影響下にあった中近東でも起きていた。
開戦から四年間で、民間の死者が百万人を超えるとも言われたイラク戦争は、イスラム諸国の人々の反米感情を高めた。そして、アメリカが強引に進めようとした中東の民主化政策は、皮肉にも選挙によって選ばれたハマスやヒズボラやエジプトのイスラム同胞団といった、イスラム原理主義に基づく反米的な勢力を勃興させることになった。
オスマン=トルコ帝国の崩壊以来、欧米の力によって分断され、宗派対立によって分裂していたイスラム諸国の人々の間に芽生えた民族意識、同胞意識は、やがて徐々にイスラム圏に新たな秩序をもたらすことになった。
豊富な石油資源に恵まれ、アメリカの軍事力に支えられてきたペルシャ湾岸の六か国、サウジアラビア・クウェート・アラブ首長国連邦・カタール・オマーン・バーレーンは「アラブ首長国会議」を発足させ、二〇一〇年には通貨統合を行って、アメリカから自立した経済圏の構築に努めた。
そして、石油の価格表示をドルだけでなく、共通通貨リヤドでも表示するようになって、世界のドル離れを加速させた。それは世界で黄金のごとく通用して、アメリカの覇権力を支えていたドル覇権の終焉が近づいていることを象徴するものだった。
この六か国を中心に形成されていったイスラム共同体は、イラク・トルコ・パキスタン・アフガニスタン、そして、エジプトやシリアなども包括する、緩やかな連合体として世界の極の一つを形成している。
アメリカ軍の撤退後、過激なイスラム原理主義や自爆テロは徐々に姿を消していった。欧米の影響下から脱したイスラム諸国に、ようやく真の独立と平和が訪れたようである。
そして、イランもまた、アラブ共同体と連帯し、世界各国と協調路線をとるようになって政治的に安定し、人々はようやく豊かな天然資源の恩恵を享受できるようになった。イスラムの教えを守りつつ、かつてのペルシャ文明を継承する誇り高い国家として、その輝きを取り戻しつつある」
ここに描かれているのは、私がかくあってほしい、と願った中東地域の未来像であり、そんな甘いもんじゃない、と思われる方も多いことと思います。
元々今の中東諸国のほとんどの国は第一次世界大戦前まではオスマン帝国の支配下にありました。そして中東の国々が今のように不自然に引かれた国境線によって分断され、パレスティナの地にイスラエルというユダヤ人の国家ができるに至ったのは、当時の覇権国であったイギリスの「三枚舌外交」といわれる秘密外交が原因でした。その辺りの事情を2009年12月のブログ「帝国主義の残滓―インドと中東の場合」で取り上げましたが、もう一度簡単に書いておきます。
第一次世界大戦中の1916年、オスマン帝国からの独立とアラブ統一国家の樹立を目指して立ち上がったのがメッカの太守フサイン・イブン・アリーでした。1915年、フサインとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間で、「イギリスは対オスマントルコ戦への協力を条件にアラブの独立を支持する」という「フサイン・マクマホン協定」が結ばれました。
そのときイギリスから送り込まれてアラブ人たちと共に戦い、際だった軍事の才能を発揮して戦いを勝利に導いたとされるのが映画「アラビアのロレンス」に描かれたトーマス・エドワード・ロレンスでした。フサインとロレンスは1918年までの2年間に渡りオスマン軍と戦って勝利しますが、イギリスがこの秘密協定を反故にしたために、結局アラブ統一国家が樹立されることはありませんでした。
イギリスは1916年に、フランス、ロシアとの間で、オスマン帝国領の分割案を取り決めた秘密協定を結んでおり(サイクス・ピコ協定)、第一次大戦終結後、中東の旧オスマン帝国領はこの協定に基づいて分割されました。
一方で1917年、時の外務大臣からイギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルドへの書簡という形で、当時英国の支配下にあったパレスティナでのユダヤ人国家の建設に対するイギリス政府の支持を表明していました。(バルフォア宣言)
こうして第一次大戦後ほとんどの国がイギリスとフランスの支配下に置かれた中東地域は第二次大戦後の独立後は、多くの国がイギリスに代わって覇権国となったアメリカの影響下に置かれ、祖国を追われたパレスティナの人々の難民問題やそれに抗議する自爆テロ、ともすれば拡張主義に走るイスラエルとエジプトを中心とするアラブ諸国との数次にわたる中東戦争やレバノン内戦、そして湾岸戦争、イラク戦争と、非常に不安定な地域となっていました。
今回の民衆革命は中東に何をもたらそうとしているのか。今後この地域で影響力を増しそうなムスリム同胞団を軸に考えてみたいと思います。
今回チュニジアとエジプトで起こった「革命」でまず立ち上がったのはインテリ層の若者たちでした。チュニジアでは就職難で大学をでたのに仕事につけず、露天商を営んでいて当局に拘束され、抗議の焼身自殺を図った若者の死がきっかけとなり、またエジプトでは昨年6月にいきなり当局に連行され、過酷な拷問の末殺された二八歳のあるインテリ青年の弔い合戦だったと言われています。若者たちの社会への、そして独裁者への怒りは、フェイスブックやtwitterによってまたたく間に全土に広がり、両国とも軍が民衆の側に付いたことによって、内戦とはならずに比較的早期に独裁者を退陣に追い込むことに成功しました。
人々が求めたのは独裁政権の打倒であり、反米やイスラム主義が声高に叫ばれることはありませんでした。
しかしチュニジアのベン・アリー政権もエジプトのムバラク政権も親米の傀儡政権であり、とりわけアメリカはイスラエルを守るためにムバラク政権に軍事や経済面で巨額の援助を与えてきました。が皮肉なことに自由と民主主義を国是とするアメリカがこのような民衆の蜂起に反対することはできず、ムバラク政権をある意味見殺しにする結果となりました。エジプトが今後どのような方向に向かうのかは中東全体に大きな影響を与える問題ですが、その鍵を握りそうなのがムスリム同胞団 というスンニ派の穏健派イスラム原理主義の組織です。
ムスリム同胞団はまだエジプトがイギリスの支配下にあった1928年、ハサン・アル・バンナーによって設立されました。
Asahi.com によれば
「イスラムの弱体を憂えたバンナーは、その教えの原点に立ち戻り、民衆にシャリア(イスラム法)の実践を説いた。そして病院設立、労組結成、就職斡旋、貧困者への金銭援助など、様々な奉仕活動を展開し、多くの人々を引きつけていった。また、出版、鉄鋼、繊維などの企業も経営し、40年代末には数十万人の巨大組織に成長させた。やがて政治参加も要求するようになり、そのネットワークは周辺のアラブ諸国にも拡大していった。しかし、それを脅威とする政府によって非合法化され、49年には創始者バンナーが暗殺される。その間、一時合法化されたものの、組織は分裂状態になり、地下組織化した一部の過激分子がゲリラ活動に走った」
その後ナセル暗殺未遂事件を契機に1970年のナセル時代の終焉まで非合法化されるなど苦難の歴史を歩んでゆきますが、この組織の基本が社会奉仕活動、貧民救済にあり、非常に実践的であるという点は設立当初から今に至るまで変わっていないようで、それがイスラム各国にネットワークを広げていった要因の一つのように思われます。
ナセル以降は合法の範囲内で政治活動も続け、ムバラク政権下の1984年、合法の他党と組んで初めて議席を獲得。その後着実に議席を伸ばし、そして2005年の人民議会選挙では中東民主化を唱えるアメリカの圧力に屈するかたちでムバラク政権が同胞団を弾圧しなかったため、無所属での立候補ながら、同胞団系の候補者が444議席中88議席を獲得して野党第一党となりました。
このように歴代政権の弾圧を受けながらも地道な政治活動を続けてきたムスリム同胞団ですが、ムバラク政権崩壊後、初の政党 自由と公正党 を立ち上げています。
イスラム原理主義の組織というとすぐに「過激派」と結びつける傾向が欧米や日本にあって、今回の民衆革命後のエジプトを論じたものにも、「もし今後同胞団が政治の主導権を握るようなことになれば中東は混乱し、非常に危険である」といった論調が目立ちます。彼等が目指すエジプト、そして中東の「かたち」とはどのようなものなのでしょうか。
自由と公正党を立ち上げた5月、同胞団の幹部の一人がテレビカメラの前で「我々はトルコの公正発展党のような議会制民主主義を目指す」と語っていました。公正発展党は2003年からトルコの首相を務めているエルドアンによって2001年に結成され、2002年の総選挙以来国民の圧倒的な支持を背景に、政権を担っています。エルドアン首相については、ブログ「多極化とはなんなのか」「脱イスラム入欧からの脱却―トルコエルドアン首相の挑戦」で取り上げているので、ご興味があったら読んで頂きたいのですが、エルドアン首相は20世紀初頭日本の明治維新に倣って近代化、欧化を図り、政教分離、世俗主義の国を目指してきたトルコの立ち位置を少しづつ修正しながら、欧米から自立した全方位外交を積極的に展開し、毎年8%を超える高い成長率を維持してきました。
公正発展党は中道右派を標榜し、EU加盟や自由主義経済を目標に掲げ、イスラム色を前面に出してはいないもののエルドアン党首は熱心なイスラム教徒として知られています。8年間、議会制民主主義を堅持しつつ、イスラームの国としてアラブ諸国やイランとの融和を指向し、同時に経済的な発展も実現してきたトルコは、これから徐々に民主化へと向かうことが期待される中東諸国の一つの指標となる可能性があるように思います。
ムスリム同胞団には長い弾圧の歴史があり、政治の実権を握った際の欧米の警戒心もよく分かっているでしょうから、もし彼等が政権の中枢を担うようなことがあっても、あくまで議会制民主主義に則って慎重に政治を行いながら徐々にエジプト社会をイスラームへの回帰へと導いてゆくのではないだろうかと推測されます。
尚wikipedia によれば
2005年11月の人民議会選挙の選挙綱領は、序文と「復興・開発・改革」の3部構成で、それぞれ以下を掲げた。
ムスリム同胞団の組織は、パレスティナ(ハマス)、レバノン、ヨルダン、バーレーン、イラク、シリア、イエメン、チュニジア、アルジェリア、スーダン、ソマリア等々、広範囲の多くの国々にわたり、長期的には中東からアフリカにかけてのイスラム圏に同胞団を主軸とした統合体が形成されてゆくことも考えられます。
しかしことは無論それほど簡単でも単純でもありません。
まずはお膝元のエジプトで民主化を求めて立ち上がった人々が、エジプトがイスラム法の支配する社会になることに抵抗を示すことも考えられます。トルコで6月に行われた総選挙では、エルドアン首相率いる公正発展党が単独過半数を制して勝利したものの、エルドアンの目指すよりイスラム法に忠実な社会の実現のための憲法改正に必要な三分の二の議席は得られませんでした。トルコ国民の中にも社会がイスラム化することへの警戒感を持つ人は少なくないようです。
また中東は国内にスンニ派とシーア派の宗派対立を抱えている国も多く、国同士も権力を握っているのがシーア派かスンニ派かで対立が生まれ、一口にイスラム圏といっても、決して一様ではありません。
また資源に恵まれた中東では欧米の利権獲得競争も激しくて、リビアに見られるように、正義の名のもとに彼等が干渉してくることも大いにあり得ます。
こういった様々な問題を超克して、中東の地に平和が訪れ、嘗ての栄光あるイスラム文明圏の輝きを取り戻すことはできるのでしょうか。
とりあえず9月に行われるエジプトの総選挙を見守りたいと思います。