
投稿日 2011年08月04日
オットー・フォン・ハプスブルグ大公がドイツ南部ペッキングの自宅で家族に見守られながら九八才で亡くなった、という報に接して、大公の歩んだ生涯に思いを馳せながら感慨を禁じ得ませんでした。
私は大公が来日した時の歓迎レセプションに出席したことがある程度で、個人的にお目にかかったことは一度もないのですが、30代の前半、その思想と行動に接して大きな影響を受け、後に「日本の蘇生」という本を書くきっかけの一つともなった田中清玄氏と大公は無二の親友であり、田中氏を通じて、私は、オットー・フォン・ハプスブルグという、代々神聖ローマ帝国皇帝の称号を世襲するとともに、約700年間に渡ってヨーロッパの広範な地域を統治したハプスブルグ家最後の皇太子のひととなり、その揺るぎない信念と強靱な精神に触れることができました。
田中氏とオットー大公の友情はおよそ肩書きや社会的な地位とは関係のない、魂の触れ合いを感じさせるものでしたが、二人は友人であると同時に同志として深く結ばれていたように思います。田中氏には、幕末の会津藩家老田中土佐の血筋であることへの強い誇りがあり、長年軍事と政治に関わってきた武士の末裔として、目的の達成のためには身を挺して徹底的に戦うという精神はオットー大公とどこかで相通じている、という印象を受けていました。
第二次大戦でオットー大公は、第一次大戦後のハプスブルグ帝国崩壊に伴い、一族を国外に追放した祖国オーストリアのためにナチスドイツと戦い、田中清玄氏は、戦前の武装共産党の委員長として革命に情熱を燃やし、国家との戦いに挑みました。
そして私が田中氏と出会った1976年当時、彼等の共通の「戦うべき相手」はソ連共産党であり、その先には、中欧、東欧の国々を含めた「欧州統合」がありました。そして田中氏はアジアと日本の自立自尊のための「アジア共同体」構想に向けて、鄧小平やリクァンユー、マナティールといったアジアの指導者たちと語らいながらその実現に向けて奔走していました。
田中氏はよく「ソ連の体制はもう持たない。いずれ近い将来、ソ連邦は崩壊し、共産党の一党支配も終わる。そして中欧、東欧の国々もソ連の支配から解放されるだろう」と語っていました。ヨーロッパにいれば、共産党一党独裁体制のもと、表現の自由を初めとするあらゆる自由を制限された人々の苦しみ、衛星国家としてソ連に収奪される国々の実情、計画経済の行き詰まりなどを日本にいる時よりずっと切実に感じていたので、田中氏の言葉は大いなる希望を与えてくれるものでした。しかし当時は長く権力の座にいたブレジネの全盛期であり、共産主義はまだとりわけ発展途上国で勢力を伸ばしつつあり、俄には信じがたいという思いは否定できませんでした。
又欧州統合に関しても氏は「ヨーロッパは今世紀中に統合へと向かうだろう」とよく語ってくれました。そして日本で欧州議会の存在が無視、あるいは軽視されていることを憤っていました。確かに当時日本では欧州が統合へと向かおうとしている、という認識を持っていた人は極めて少数派であり「欧州議会」の存在さえほとんど知られていなかったように思います。
しかし、その後の歴史の展開は田中氏の言葉の正しさを証明しました。
ところで日本が開国した一九世紀後半、ヨーロッパは帝国主義の時代に突入しており、日本が近代国家へと脱皮するために手本としたのは当時の強国、イギリス、フランス、そして日本と同様中央集権・富国強兵の国家体制を整えるべく国家統一戦争を戦ったドイツ、イタリア、そして急速に台頭してきたアメリカなどでした。時代は愛国心を鼓舞して国民を戦争へ、植民地獲得へと駆り立てるのに都合の良い「国民国家」の時代になっていました。そのため私どもは、それ以前のヨーロッパや中東で、各国にまたがる広大な領土を統治していたハプスブルグ帝国やオスマン帝国についてはあまり関心を払わず、学校の世界史でもほとんど習わなかったように思います。
ハプスブルグ帝国に関して私が、一八世紀くらいまでの大陸ヨーロッパの政治的、文化的中心は西欧よりもむしろオーストリア、チェコ、ハンガリーなど中欧諸国であった、という事実や、チェコ・ボヘミアの貴族クーデンホーフ・カレルギーの「汎ヨーロッパ」思想の背景には、この帝国の、それぞれの民族の文化や言語を尊重した緩やかな統治にあったことなどを知ったのは、塚本哲也の「我が青春のハプスブルグ」を読んでからでした。例えば私は結婚前仕事で年に何回かミラノに行っていましたが、あの重厚で落ち着いた佇まいの文化の香り豊かな都市がある時期ハプスブルグ帝国の統治下にあり、イタリアの誇るオペラの殿堂スカラ座がマリア・テレジアの命によって建てられたということも私はこの本を読むまで知りませんでした。
ハプスブルグ帝国の領域は時代によって変動がありますが、例えば数々の改革を行い、非常に開明的な女帝として名高いマリア・テレジア(在位1740-1780) の時代を例にとると、その領土は、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、モラヴィア、シレジア、スロベニア、クロアチア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナといった中欧、東欧地域、南ネーデルランド(現在のベルギー、ルクセンブルグ)、イタリア(ミラノなどの北イタリア、トスカーナ、ロンバルディア、パルマ、ヴェネチィア)、エルベ川沿いのドイツ領の一部などに及んでいました。
この極めて多民族で多様な文化と言語を有する広大な地域を治めるためにマリア・テレジアの行った改革、例えば徴兵制や徴税制度などを見てみると、領内の人々を差別せず、公平であることに感心させられますが、とりわけ画期的なのが教育制度でした。
Wikipediaによれば
「他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設。義務教育を確立させた。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果国民の知的水準が大きく上昇した」
以前放送されたNHKhiビジョン特集「ハプスブルグ帝国」によれば、教科書は領内のすべての言語によって作られたとのことでした。その番組の中で印象に残ったことの一つはハプスブルグ家の人々に共通するコスモポリタンの気質でした。彼等は必ず複数の言語を話し、どこか特定の国の国民であるという意識がなく、あえて言えば自分たちを「ヨーロッパ人」と思っている。それがスイスに興ってヨーロッパ各地に領土を広げていったハプスブルグの精神なのだと思いました。
ハプスブルグ帝国が崩壊し、一族が国外追放となったのは1918年、オットー大公が6才の時でした。ナチスドイツの勃興に伴いアメリカに亡命。ルーズベルト大統領を初めとするアメリカの指導者や知識人たちと交わりますが、やがてアメリカの支援の下、1938年にナチスドイツに併合された祖国オーストリア解放のための戦いに挑みます。しかしそれはオーストリアの人々、特にオットー大公が再び君主として返り咲こうとしているのではないかと疑う一部の政治家たちからの理解を得られず、大公にとって苦しい時期だったと思います。
戦後ハプスブルグ家がオーストリアの市民権を取り戻したのは1961年のことでした。
オットー大公は引き続きドイツに留まり、ドイツ選出の欧州議会の議員を務めながら欧州統合へとヨーロッパを導くことに力を尽くしますが、オットー大公がその前に目指していたのは、ハンガリー、チェコ、ポーランド、ルーマニアといった嘗てのハプスブルグ帝国の所領であった国々をソ連から解放することだったと思います。1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春・・・。いずれもソ連の戦車によって踏みにじられた人々の自由への渇望をオットー大公は重く受け止めていたのではないかと思います。
そして1989年11月9日、遂にベルリンの壁が崩壊し、それから2年余りでソ連邦も瓦解。田中清玄氏の予見の正しさを噛みしめたのですが、ベルリンの壁崩壊 にオットー大公が深く関わっていたことを知ったのは実はそれから数年後のことでした。
1993年12月、NHKスペシャル「ヨーロッパピクニック計画―こうしてベルリンの壁は崩壊した」が放映されました。今のNHKでは望むべくもない緻密に取材・構成された迫真のドキュメンタリーで、これを見たオットー大公も「ヨーロッパピクニックを題材にしたドキュメンタリーはヨーロッパでもたくさん作られたがNHKのものが一番優れている」と言っていた、と知人から聞きました。
発端はやはり、1986年4月にゴルバチョフが発した「ペレストロイカ宣言」でした。その流れの中で1988年ハンガリーにネーメト政権が誕生し種々の民主化政策を打ち出して改革に着手し、そしてオットー大公は密かにこの政権の協力を得、また民間団体の協力も得て、「89年8月19日、オーストリアとの国境の町ショプロンで汎ヨーロッパについて話し合う集会を開こう」という呼びかけを、オットー・フォン・ハプスブルグの名において行います。当日バカンスに来ていた大勢の東ドイツの人々が集まり、ハンガリー政府の了承のもと、40年間閉ざされていた国境の扉が僅かな間ながら開かれて、六〇〇人ほどの東ドイツの人々が西側に亡命しました。自由を求めてショプロンから西側に亡命を求める人々は日を追って増え続け、そしてベルリンの壁の崩壊はそれから僅か三ヶ月後のことでした。
その後、ビロード革命 と呼ばれた、戦車も銃も使わない静かな革命が東側の国々に起こって各国で共産党政権が瓦解し、そして1991年には遂にソ連邦が崩壊しました。
田中清玄氏は1993年12月に亡くなりましたが、遺品の中からショプロンの、ハンガリーとオーストリアを隔てていた鉄条網の切れ端が見つかった、とご遺族から伺いました。オットー大公から贈られたもののようで、大公の田中氏への友情の証ではなかったかと思います。
そして1992年、マーストリヒト条約の締結によってヨーロッパは、EC(EUROPEAN COMMUNITY)からEU(EUROPEAN UNION)へと転換しました。この条約によって、ヨーロッパは、それまでの経済統合から、国境を取り払い、共通の通貨、外交、安全保障を目指す、連合国家としての道を歩み始めることになります。
2004年には、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ポーランド、スロベニア、など、嘗てのハプスブルグ帝国の領土で、第二大戦後はソ連の支配下にあった国々が新たに加盟しました。クーデンホーフ・カレルギーが戦争に明け暮れるヨーロッパの現状に強い危機感を持ち、「各国はナショナリズムを捨てて一つのヨーロッパを目指すべきだ」と訴えてから80年ほどが経っていました。
現在のEU加盟国は二七カ国。ギリシャからスペイン、イタリアへと拡大しつつある経済危機や国境を開放したことによって大量の移民が流入することへの国民の危機感など、前途は決して容易ではありません。しかし、ナポレオンやヒトラーが目指した軍事力によるヨーロッパの統合が一つの理念によってなされたのは世界史上例のないことであり、今後を見守りたいと思います。
7月16日にウイーンで行われたオットー大公の葬儀は国葬と言って良い壮麗なものだったようです。ステファン大聖堂から、ハプスブルグ家の墓所であるカプチーナ教会まで、三千人余りの人々が、ハプスブルグ帝国各地の民族衣装を纏って葬列に加わったとのことでした。
私は時代の変遷を感じました。二〇世紀初頭、「民族自決」の原則のもとに解体されたハプスブルグ帝国やオスマン帝国は当時は、時代遅れの封建的な君主国家であり、異民族を支配下に置いていた抑圧的な統治システムである、とみなされました。しかし行きすぎたナショナリズムや過度の民族意識が悲惨な戦争を引き起こす事も世界は学んできました。
生涯その不抜の信念に基づいて戦い続け、歴史的使命を果たしたハプスブルグ帝国最後の皇太子の葬儀に、人々は700年に及ぶハプスブルグ帝国の歴史に最後のピリオドが打たれた、という思いを噛みしめていたのではないでしょうか。