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	<title>日本の蘇生 &#187; 歴史・文化・政治のコーナー</title>
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	<description>歴史を見つめ　未来を考える　一市民としてこれ以上日本が壊れて行くのを見過ごすことはできない</description>
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		<title>ハプスブルグ帝国最後の皇太子　オットー・フォン・ハプスブルグ大公の死に寄せて</title>
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		<pubDate>Thu, 04 Aug 2011 04:08:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・文化・政治のコーナー]]></category>

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		<description><![CDATA[　オットー・フォン・ハプスブルグ大公がドイツ南部ペッキングの自宅で家族に見守られながら九八才で亡くなった、という報に接して、大公の歩んだ生涯に思いを馳せながら感慨を禁じ得ませんでした。
　私は大公が来日した時の歓迎レセプ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　オットー・フォン・ハプスブルグ大公がドイツ南部ペッキングの自宅で家族に見守られながら九八才で亡くなった、という報に接して、大公の歩んだ生涯に思いを馳せながら感慨を禁じ得ませんでした。</p>
<p>　私は大公が来日した時の歓迎レセプションに出席したことがある程度で、個人的にお目にかかったことは一度もないのですが、３０代の前半、その思想と行動に接して大きな影響を受け、後に「日本の蘇生」という本を書くきっかけの一つともなった田中清玄氏と大公は無二の親友であり、田中氏を通じて、私は、オットー・フォン・ハプスブルグという、代々神聖ローマ帝国皇帝の称号を世襲するとともに、約７００年間に渡ってヨーロッパの広範な地域を統治したハプスブルグ家最後の皇太子のひととなり、その揺るぎない信念と強靱な精神に触れることができました。</p>
<p>　田中氏とオットー大公の友情はおよそ肩書きや社会的な地位とは関係のない、魂の触れ合いを感じさせるものでしたが、二人は友人であると同時に同志として深く結ばれていたように思います。田中氏には、幕末の会津藩家老田中土佐の血筋であることへの強い誇りがあり、長年軍事と政治に関わってきた武士の末裔として、目的の達成のためには身を挺して徹底的に戦うという精神はオットー大公とどこかで相通じている、という印象を受けていました。</p>
<p>　第二次大戦でオットー大公は、第一次大戦後のハプスブルグ帝国崩壊に伴い、一族を国外に追放した祖国オーストリアのためにナチスドイツと戦い、田中清玄氏は、戦前の武装共産党の委員長として革命に情熱を燃やし、国家との戦いに挑みました。</p>
<p>　そして私が田中氏と出会った１９７６年当時、彼等の共通の「戦うべき相手」はソ連共産党であり、その先には、中欧、東欧の国々を含めた「欧州統合」がありました。そして田中氏はアジアと日本の自立自尊のための「アジア共同体」構想に向けて、鄧小平やリクァンユー、マナティールといったアジアの指導者たちと語らいながらその実現に向けて奔走していました。</p>
<p>　田中氏はよく「ソ連の体制はもう持たない。いずれ近い将来、ソ連邦は崩壊し、共産党の一党支配も終わる。そして中欧、東欧の国々もソ連の支配から解放されるだろう」と語っていました。ヨーロッパにいれば、共産党一党独裁体制のもと、表現の自由を初めとするあらゆる自由を制限された人々の苦しみ、衛星国家としてソ連に収奪される国々の実情、計画経済の行き詰まりなどを日本にいる時よりずっと切実に感じていたので、田中氏の言葉は大いなる希望を与えてくれるものでした。しかし当時は長く権力の座にいたブレジネの全盛期であり、共産主義はまだとりわけ発展途上国で勢力を伸ばしつつあり、俄には信じがたいという思いは否定できませんでした。</p>
<p>　又欧州統合に関しても氏は「ヨーロッパは今世紀中に統合へと向かうだろう」とよく語ってくれました。そして日本で欧州議会の存在が無視、あるいは軽視されていることを憤っていました。確かに当時日本では欧州が統合へと向かおうとしている、という認識を持っていた人は極めて少数派であり「欧州議会」の存在さえほとんど知られていなかったように思います。<br />
　しかし、その後の歴史の展開は田中氏の言葉の正しさを証明しました。</p>
<p>　ところで日本が開国した一九世紀後半、ヨーロッパは帝国主義の時代に突入しており、日本が近代国家へと脱皮するために手本としたのは当時の強国、イギリス、フランス、そして日本と同様中央集権・富国強兵の国家体制を整えるべく国家統一戦争を戦ったドイツ、イタリア、そして急速に台頭してきたアメリカなどでした。時代は愛国心を鼓舞して国民を戦争へ、植民地獲得へと駆り立てるのに都合の良い「国民国家」の時代になっていました。そのため私どもは、それ以前のヨーロッパや中東で、各国にまたがる広大な領土を統治していたハプスブルグ帝国やオスマン帝国についてはあまり関心を払わず、学校の世界史でもほとんど習わなかったように思います。</p>
<p>　ハプスブルグ帝国に関して私が、一八世紀くらいまでの大陸ヨーロッパの政治的、文化的中心は西欧よりもむしろオーストリア、チェコ、ハンガリーなど中欧諸国であった、という事実や、チェコ・ボヘミアの貴族クーデンホーフ・カレルギーの「汎ヨーロッパ」思想の背景には、この帝国の、それぞれの民族の文化や言語を尊重した緩やかな統治にあったことなどを知ったのは、塚本哲也の「我が青春のハプスブルグ」を読んでからでした。例えば私は結婚前仕事で年に何回かミラノに行っていましたが、あの重厚で落ち着いた佇まいの文化の香り豊かな都市がある時期ハプスブルグ帝国の統治下にあり、イタリアの誇るオペラの殿堂スカラ座がマリア・テレジアの命によって建てられたということも私はこの本を読むまで知りませんでした。</p>
<p>　ハプスブルグ帝国の領域は時代によって変動がありますが、例えば数々の改革を行い、非常に開明的な女帝として名高いマリア・テレジア（在位１７４０－１７８０）　の時代を例にとると、その領土は、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、モラヴィア、シレジア、スロベニア、クロアチア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナといった中欧、東欧地域、南ネーデルランド（現在のベルギー、ルクセンブルグ）、イタリア（ミラノなどの北イタリア、トスカーナ、ロンバルディア、パルマ、ヴェネチィア）、エルベ川沿いのドイツ領の一部などに及んでいました。</p>
<p>　この極めて多民族で多様な文化と言語を有する広大な地域を治めるためにマリア・テレジアの行った改革、例えば徴兵制や徴税制度などを見てみると、領内の人々を差別せず、公平であることに感心させられますが、とりわけ画期的なのが教育制度でした。</p>
<p>Wikipediaによれば<br />
「他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設。義務教育を確立させた。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果国民の知的水準が大きく上昇した」<br />
以前放送されたNHKhiビジョン特集「ハプスブルグ帝国」によれば、教科書は領内のすべての言語によって作られたとのことでした。その番組の中で印象に残ったことの一つはハプスブルグ家の人々に共通するコスモポリタンの気質でした。彼等は必ず複数の言語を話し、どこか特定の国の国民であるという意識がなく、あえて言えば自分たちを「ヨーロッパ人」と思っている。それがスイスに興ってヨーロッパ各地に領土を広げていったハプスブルグの精神なのだと思いました。</p>
<p>　ハプスブルグ帝国が崩壊し、一族が国外追放となったのは１９１８年、オットー大公が６才の時でした。ナチスドイツの勃興に伴いアメリカに亡命。ルーズベルト大統領を初めとするアメリカの指導者や知識人たちと交わりますが、やがてアメリカの支援の下、１９３８年にナチスドイツに併合された祖国オーストリア解放のための戦いに挑みます。しかしそれはオーストリアの人々、特にオットー大公が再び君主として返り咲こうとしているのではないかと疑う一部の政治家たちからの理解を得られず、大公にとって苦しい時期だったと思います。<br />
戦後ハプスブルグ家がオーストリアの市民権を取り戻したのは１９６１年のことでした。</p>
<p>　オットー大公は引き続きドイツに留まり、ドイツ選出の欧州議会の議員を務めながら欧州統合へとヨーロッパを導くことに力を尽くしますが、オットー大公がその前に目指していたのは、ハンガリー、チェコ、ポーランド、ルーマニアといった嘗てのハプスブルグ帝国の所領であった国々をソ連から解放することだったと思います。１９５６年のハンガリー動乱、１９６８年のプラハの春・・・。いずれもソ連の戦車によって踏みにじられた人々の自由への渇望をオットー大公は重く受け止めていたのではないかと思います。</p>
<p>　そして１９８９年１１月９日、遂にベルリンの壁が崩壊し、それから２年余りでソ連邦も瓦解。田中清玄氏の予見の正しさを噛みしめたのですが、ベルリンの壁崩壊　にオットー大公が深く関わっていたことを知ったのは実はそれから数年後のことでした。</p>
<p>　１９９３年１２月、NHKスペシャル「ヨーロッパピクニック計画―こうしてベルリンの壁は崩壊した」が放映されました。今のNHKでは望むべくもない緻密に取材・構成された迫真のドキュメンタリーで、これを見たオットー大公も「ヨーロッパピクニックを題材にしたドキュメンタリーはヨーロッパでもたくさん作られたがNHKのものが一番優れている」と言っていた、と知人から聞きました。</p>
<p>　発端はやはり、１９８６年４月にゴルバチョフが発した「ペレストロイカ宣言」でした。その流れの中で１９８８年ハンガリーにネーメト政権が誕生し種々の民主化政策を打ち出して改革に着手し、そしてオットー大公は密かにこの政権の協力を得、また民間団体の協力も得て、「８９年８月１９日、オーストリアとの国境の町ショプロンで汎ヨーロッパについて話し合う集会を開こう」という呼びかけを、オットー・フォン・ハプスブルグの名において行います。当日バカンスに来ていた大勢の東ドイツの人々が集まり、ハンガリー政府の了承のもと、４０年間閉ざされていた国境の扉が僅かな間ながら開かれて、六〇〇人ほどの東ドイツの人々が西側に亡命しました。自由を求めてショプロンから西側に亡命を求める人々は日を追って増え続け、そしてベルリンの壁の崩壊はそれから僅か三ヶ月後のことでした。<br />
　<br />
　その後、ビロード革命　と呼ばれた、戦車も銃も使わない静かな革命が東側の国々に起こって各国で共産党政権が瓦解し、そして１９９１年には遂にソ連邦が崩壊しました。</p>
<p>　田中清玄氏は１９９３年１２月に亡くなりましたが、遺品の中からショプロンの、ハンガリーとオーストリアを隔てていた鉄条網の切れ端が見つかった、とご遺族から伺いました。オットー大公から贈られたもののようで、大公の田中氏への友情の証ではなかったかと思います。</p>
<p>　そして１９９２年、マーストリヒト条約の締結によってヨーロッパは、ＥＣ（EUROPEAN  COMMUNITY)からＥＵ（EUROPEAN  UNION)へと転換しました。この条約によって、ヨーロッパは、それまでの経済統合から、国境を取り払い、共通の通貨、外交、安全保障を目指す、連合国家としての道を歩み始めることになります。</p>
<p>　２００４年には、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ポーランド、スロベニア、など、嘗てのハプスブルグ帝国の領土で、第二大戦後はソ連の支配下にあった国々が新たに加盟しました。クーデンホーフ・カレルギーが戦争に明け暮れるヨーロッパの現状に強い危機感を持ち、「各国はナショナリズムを捨てて一つのヨーロッパを目指すべきだ」と訴えてから８０年ほどが経っていました。</p>
<p>　現在のEU加盟国は二七カ国。ギリシャからスペイン、イタリアへと拡大しつつある経済危機や国境を開放したことによって大量の移民が流入することへの国民の危機感など、前途は決して容易ではありません。しかし、ナポレオンやヒトラーが目指した軍事力によるヨーロッパの統合が一つの理念によってなされたのは世界史上例のないことであり、今後を見守りたいと思います。</p>
<p>　７月１６日にウイーンで行われたオットー大公の葬儀は国葬と言って良い壮麗なものだったようです。ステファン大聖堂から、ハプスブルグ家の墓所であるカプチーナ教会まで、三千人余りの人々が、ハプスブルグ帝国各地の民族衣装を纏って葬列に加わったとのことでした。<br />
私は時代の変遷を感じました。二〇世紀初頭、「民族自決」の原則のもとに解体されたハプスブルグ帝国やオスマン帝国は当時は、時代遅れの封建的な君主国家であり、異民族を支配下に置いていた抑圧的な統治システムである、とみなされました。しかし行きすぎたナショナリズムや過度の民族意識が悲惨な戦争を引き起こす事も世界は学んできました。</p>
<p>　生涯その不抜の信念に基づいて戦い続け、歴史的使命を果たしたハプスブルグ帝国最後の皇太子の葬儀に、人々は７００年に及ぶハプスブルグ帝国の歴史に最後のピリオドが打たれた、という思いを噛みしめていたのではないでしょうか。</p>
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		<title>中東民衆革命の今後を考える</title>
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		<pubDate>Fri, 24 Jun 2011 01:15:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・文化・政治のコーナー]]></category>

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		<description><![CDATA[　震災から100日余りが過ぎようとしているのに、被災者の方々の置かれている先の見えない状況は遅々として改善されず、福島原発の事故はいよいよ深刻さを増し、やりきれなさが募る日々ですが、その間にも国際情勢は日々変化しています [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　震災から100日余りが過ぎようとしているのに、被災者の方々の置かれている先の見えない状況は遅々として改善されず、福島原発の事故はいよいよ深刻さを増し、やりきれなさが募る日々ですが、その間にも国際情勢は日々変化しています。とりわけ中東では、チュニジアに続いてエジプトでも、民衆の蜂起が独裁者を倒す、という将に革命と呼ぶにふさわしい、思いもよらぬ劇的な展開を見せ、それが、リビア、シリア、イエメン、バーレーンにまで広がり、リビア、シリアは内戦状態、バーレーンにはサウジアラビア軍が侵攻して民衆デモを弾圧するなど、予断を許さない状況が続いています。</p>
<p>　冷戦が終結した頃から中国の改革・開放を一つの契機として世界が大変動期に向かいつつあるのが感じられるようになりました。それはごく端的に言ってしまえば、１５世紀末、大航海時代以来の欧米の世界支配の終焉ということなのですが、その流れが一挙に加速したように思えたのが、９１１同時多発テロとその後の展開でした。</p>
<p>　とりわけ中東に大きな変化が起こるのではないか、という感触を強く抱くようになりました。</p>
<p>　冷戦終結後の１９９６年に発表されたサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」は欧米とイスラム世界の衝突が不可避であるかのような雰囲気を醸成し、「テロとの戦い」における敵はつまりはイスラム過激派であり、最初から泥沼化することが予想されたイラク戦争を始めたブッシュ大統領はそれを十字軍になぞらえました。少なくとも三兆ドル以上といわれる莫大な戦費（ジョゼフ・スティグリッツコロンビア大学教授著　世界を不幸にするアメリカの戦争経済―イラク戦費三兆ドルの衝撃）そして２００３年から２００８年までの約５年間で六五万五〇〇〇人以上といわれるイラク人の犠牲者数（イラク人の死者数に関しては色々調べましたが、これは昨年３月のブログ「９１１同時多発テロの真相とアメリカの戦争」で採用した、イギリスの権威ある医学雑誌　「サンセット」に発表された論文の数字）といわれるこの大義なき侵略戦争や、常にイスラエル寄りのアメリカの姿勢が、この地にやがては地殻変動を起こすのではないだろうか。</p>
<p>「日本の蘇生」のpart 1 では、フランス人ジャーナリストによる日本史を軸とした歴史を書きましたが、最後に二〇三〇年までの未来史を書きました。その中東の部分は下記のようになっています。</p>
<p>「その変化は、戦後アメリカの影響下にあった中近東でも起きていた。</p>
<p>　開戦から四年間で、民間の死者が百万人を超えるとも言われたイラク戦争は、イスラム諸国の人々の反米感情を高めた。そして、アメリカが強引に進めようとした中東の民主化政策は、皮肉にも選挙によって選ばれたハマスやヒズボラやエジプトのイスラム同胞団といった、イスラム原理主義に基づく反米的な勢力を勃興させることになった。</p>
<p>　オスマン＝トルコ帝国の崩壊以来、欧米の力によって分断され、宗派対立によって分裂していたイスラム諸国の人々の間に芽生えた民族意識、同胞意識は、やがて徐々にイスラム圏に新たな秩序をもたらすことになった。</p>
<p>　豊富な石油資源に恵まれ、アメリカの軍事力に支えられてきたペルシャ湾岸の六か国、サウジアラビア・クウェート・アラブ首長国連邦・カタール・オマーン・バーレーンは「アラブ首長国会議」を発足させ、二〇一〇年には通貨統合を行って、アメリカから自立した経済圏の構築に努めた。</p>
<p>　そして、石油の価格表示をドルだけでなく、共通通貨リヤドでも表示するようになって、世界のドル離れを加速させた。それは世界で黄金のごとく通用して、アメリカの覇権力を支えていたドル覇権の終焉が近づいていることを象徴するものだった。</p>
<p>　この六か国を中心に形成されていったイスラム共同体は、イラク・トルコ・パキスタン・アフガニスタン、そして、エジプトやシリアなども包括する、緩やかな連合体として世界の極の一つを形成している。</p>
<p>　アメリカ軍の撤退後、過激なイスラム原理主義や自爆テロは徐々に姿を消していった。欧米の影響下から脱したイスラム諸国に、ようやく真の独立と平和が訪れたようである。</p>
<p>　そして、イランもまた、アラブ共同体と連帯し、世界各国と協調路線をとるようになって政治的に安定し、人々はようやく豊かな天然資源の恩恵を享受できるようになった。イスラムの教えを守りつつ、かつてのペルシャ文明を継承する誇り高い国家として、その輝きを取り戻しつつある」</p>
<p>　ここに描かれているのは、私がかくあってほしい、と願った中東地域の未来像であり、そんな甘いもんじゃない、と思われる方も多いことと思います。</p>
<p>　元々今の中東諸国のほとんどの国は第一次世界大戦前まではオスマン帝国の支配下にありました。そして中東の国々が今のように不自然に引かれた国境線によって分断され、パレスティナの地にイスラエルというユダヤ人の国家ができるに至ったのは、当時の覇権国であったイギリスの「三枚舌外交」といわれる秘密外交が原因でした。その辺りの事情を２００９年１２月のブログ「帝国主義の残滓―インドと中東の場合」で取り上げましたが、もう一度簡単に書いておきます。</p>
<p>　第一次世界大戦中の１９１６年、オスマン帝国からの独立とアラブ統一国家の樹立を目指して立ち上がったのがメッカの太守フサイン・イブン・アリーでした。１９１５年、フサインとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間で、「イギリスは対オスマントルコ戦への協力を条件にアラブの独立を支持する」という「フサイン・マクマホン協定」が結ばれました。</p>
<p>　そのときイギリスから送り込まれてアラブ人たちと共に戦い、際だった軍事の才能を発揮して戦いを勝利に導いたとされるのが映画「アラビアのロレンス」に描かれたトーマス・エドワード・ロレンスでした。フサインとロレンスは１９１８年までの２年間に渡りオスマン軍と戦って勝利しますが、イギリスがこの秘密協定を反故にしたために、結局アラブ統一国家が樹立されることはありませんでした。<br />
　イギリスは１９１６年に、フランス、ロシアとの間で、オスマン帝国領の分割案を取り決めた秘密協定を結んでおり（サイクス・ピコ協定）、第一次大戦終結後、中東の旧オスマン帝国領はこの協定に基づいて分割されました。</p>
<p>　一方で１９１７年、時の外務大臣からイギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルドへの書簡という形で、当時英国の支配下にあったパレスティナでのユダヤ人国家の建設に対するイギリス政府の支持を表明していました。（バルフォア宣言）</p>
<p>　こうして第一次大戦後ほとんどの国がイギリスとフランスの支配下に置かれた中東地域は第二次大戦後の独立後は、多くの国がイギリスに代わって覇権国となったアメリカの影響下に置かれ、祖国を追われたパレスティナの人々の難民問題やそれに抗議する自爆テロ、ともすれば拡張主義に走るイスラエルとエジプトを中心とするアラブ諸国との数次にわたる中東戦争やレバノン内戦、そして湾岸戦争、イラク戦争と、非常に不安定な地域となっていました。</p>
<p>　今回の民衆革命は中東に何をもたらそうとしているのか。今後この地域で影響力を増しそうなムスリム同胞団を軸に考えてみたいと思います。</p>
<p>　今回チュニジアとエジプトで起こった「革命」でまず立ち上がったのはインテリ層の若者たちでした。チュニジアでは就職難で大学をでたのに仕事につけず、露天商を営んでいて当局に拘束され、抗議の焼身自殺を図った若者の死がきっかけとなり、またエジプトでは昨年６月にいきなり当局に連行され、過酷な拷問の末殺された二八歳のあるインテリ青年の弔い合戦だったと言われています。若者たちの社会への、そして独裁者への怒りは、フェイスブックやtwitterによってまたたく間に全土に広がり、両国とも軍が民衆の側に付いたことによって、内戦とはならずに比較的早期に独裁者を退陣に追い込むことに成功しました。</p>
<p>人々が求めたのは独裁政権の打倒であり、反米やイスラム主義が声高に叫ばれることはありませんでした。</p>
<p>　しかしチュニジアのベン・アリー政権もエジプトのムバラク政権も親米の傀儡政権であり、とりわけアメリカはイスラエルを守るためにムバラク政権に軍事や経済面で巨額の援助を与えてきました。が皮肉なことに自由と民主主義を国是とするアメリカがこのような民衆の蜂起に反対することはできず、ムバラク政権をある意味見殺しにする結果となりました。エジプトが今後どのような方向に向かうのかは中東全体に大きな影響を与える問題ですが、その鍵を握りそうなのがムスリム同胞団　というスンニ派の穏健派イスラム原理主義の組織です。</p>
<p>ムスリム同胞団はまだエジプトがイギリスの支配下にあった1928年、ハサン・アル・バンナーによって設立されました。</p>
<p>Asahi.com　によれば</p>
<p>「イスラムの弱体を憂えたバンナーは、その教えの原点に立ち戻り、民衆にシャリア(イスラム法)の実践を説いた。そして病院設立、労組結成、就職斡旋、貧困者への金銭援助など、様々な奉仕活動を展開し、多くの人々を引きつけていった。また、出版、鉄鋼、繊維などの企業も経営し、40年代末には数十万人の巨大組織に成長させた。やがて政治参加も要求するようになり、そのネットワークは周辺のアラブ諸国にも拡大していった。しかし、それを脅威とする政府によって非合法化され、49年には創始者バンナーが暗殺される。その間、一時合法化されたものの、組織は分裂状態になり、地下組織化した一部の過激分子がゲリラ活動に走った」</p>
<p>　その後ナセル暗殺未遂事件を契機に１９７０年のナセル時代の終焉まで非合法化されるなど苦難の歴史を歩んでゆきますが、この組織の基本が社会奉仕活動、貧民救済にあり、非常に実践的であるという点は設立当初から今に至るまで変わっていないようで、それがイスラム各国にネットワークを広げていった要因の一つのように思われます。</p>
<p>　ナセル以降は合法の範囲内で政治活動も続け、ムバラク政権下の１９８４年、合法の他党と組んで初めて議席を獲得。その後着実に議席を伸ばし、そして２００５年の人民議会選挙では中東民主化を唱えるアメリカの圧力に屈するかたちでムバラク政権が同胞団を弾圧しなかったため、無所属での立候補ながら、同胞団系の候補者が４４４議席中８８議席を獲得して野党第一党となりました。</p>
<p>　このように歴代政権の弾圧を受けながらも地道な政治活動を続けてきたムスリム同胞団ですが、ムバラク政権崩壊後、初の政党　自由と公正党　を立ち上げています。</p>
<p>　イスラム原理主義の組織というとすぐに「過激派」と結びつける傾向が欧米や日本にあって、今回の民衆革命後のエジプトを論じたものにも、「もし今後同胞団が政治の主導権を握るようなことになれば中東は混乱し、非常に危険である」といった論調が目立ちます。彼等が目指すエジプト、そして中東の「かたち」とはどのようなものなのでしょうか。</p>
<p>　自由と公正党を立ち上げた５月、同胞団の幹部の一人がテレビカメラの前で「我々はトルコの公正発展党のような議会制民主主義を目指す」と語っていました。公正発展党は２００３年からトルコの首相を務めているエルドアンによって２００１年に結成され、２００２年の総選挙以来国民の圧倒的な支持を背景に、政権を担っています。エルドアン首相については、ブログ「多極化とはなんなのか」「脱イスラム入欧からの脱却―トルコエルドアン首相の挑戦」で取り上げているので、ご興味があったら読んで頂きたいのですが、エルドアン首相は２０世紀初頭日本の明治維新に倣って近代化、欧化を図り、政教分離、世俗主義の国を目指してきたトルコの立ち位置を少しづつ修正しながら、欧米から自立した全方位外交を積極的に展開し、毎年８%を超える高い成長率を維持してきました。</p>
<p>　公正発展党は中道右派を標榜し、EU加盟や自由主義経済を目標に掲げ、イスラム色を前面に出してはいないもののエルドアン党首は熱心なイスラム教徒として知られています。8年間、議会制民主主義を堅持しつつ、イスラームの国としてアラブ諸国やイランとの融和を指向し、同時に経済的な発展も実現してきたトルコは、これから徐々に民主化へと向かうことが期待される中東諸国の一つの指標となる可能性があるように思います。</p>
<p>　ムスリム同胞団には長い弾圧の歴史があり、政治の実権を握った際の欧米の警戒心もよく分かっているでしょうから、もし彼等が政権の中枢を担うようなことがあっても、あくまで議会制民主主義に則って慎重に政治を行いながら徐々にエジプト社会をイスラームへの回帰へと導いてゆくのではないだろうかと推測されます。</p>
<p>尚wikipedia によれば</p>
<p>2005年11月の人民議会選挙の選挙綱領は、序文と「復興・開発・改革」の3部構成で、それぞれ以下を掲げた。</p>
<ul style="margin-left:15px; margin-bottom:1em">
<li>序文 &#8211; 「イスラーム的権威」と「民主主義的メカニズム」を掲げ、議会や選挙などの民主主義の制度を堅持しつつ、シャリーア（イスラム法）施行を目指す </li>
<li>復興 &#8211; 基本的な自由と権利、生活水準の向上、女性の権利向上など </li>
<li>開発 &#8211; 均衡のとれた発展、国内資源活用による自給能力向上、アラブ・イスラーム諸国との発展的統合など </li>
<li>改革 &#8211; シャリーアの原則に反しない形での三権分立、議会制民主主義、平和的な政権交代、非常事態宣言の停止、民主化などの37項目の改革案 </li>
</ul>
<p>　ムスリム同胞団の組織は、パレスティナ（ハマス）、レバノン、ヨルダン、バーレーン、イラク、シリア、イエメン、チュニジア、アルジェリア、スーダン、ソマリア等々、広範囲の多くの国々にわたり、長期的には中東からアフリカにかけてのイスラム圏に同胞団を主軸とした統合体が形成されてゆくことも考えられます。<br />
しかしことは無論それほど簡単でも単純でもありません。 </p>
<p>　まずはお膝元のエジプトで民主化を求めて立ち上がった人々が、エジプトがイスラム法の支配する社会になることに抵抗を示すことも考えられます。トルコで6月に行われた総選挙では、エルドアン首相率いる公正発展党が単独過半数を制して勝利したものの、エルドアンの目指すよりイスラム法に忠実な社会の実現のための憲法改正に必要な三分の二の議席は得られませんでした。トルコ国民の中にも社会がイスラム化することへの警戒感を持つ人は少なくないようです。 </p>
<p>　また中東は国内にスンニ派とシーア派の宗派対立を抱えている国も多く、国同士も権力を握っているのがシーア派かスンニ派かで対立が生まれ、一口にイスラム圏といっても、決して一様ではありません。<br />
また資源に恵まれた中東では欧米の利権獲得競争も激しくて、リビアに見られるように、正義の名のもとに彼等が干渉してくることも大いにあり得ます。 </p>
<p>　こういった様々な問題を超克して、中東の地に平和が訪れ、嘗ての栄光あるイスラム文明圏の輝きを取り戻すことはできるのでしょうか。 </p>
<p>　とりあえず9月に行われるエジプトの総選挙を見守りたいと思います。 </p>
]]></content:encoded>
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		<title>原発とプロメテウスの神話ーフィンランド「10万年後の安全」のための取り組み</title>
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		<pubDate>Wed, 27 Apr 2011 07:18:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・文化・政治のコーナー]]></category>

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		<description><![CDATA[　テレビのニュースを見ながら、被災者の方たちと共に悲しみ、共に嘆くという日々ですが、私には東北の方たちのような忍耐強さがなく、つい怒り、苛立ち、鬱々としています。
　一体被災者の方たちはいつまであの過酷な避難所生活を強い [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　テレビのニュースを見ながら、被災者の方たちと共に悲しみ、共に嘆くという日々ですが、私には東北の方たちのような忍耐強さがなく、つい怒り、苛立ち、鬱々としています。</p>
<p>　一体被災者の方たちはいつまであの過酷な避難所生活を強いられるのでしょうか。</p>
<p>　新学期が始まって、教室を避難所としていた人々が、体育館に移るように、と追い立てられていました。一ヶ月半に及ぶ避難所生活で疲れ切った人々が、電気も使えない、壊れかかった体育館で生活することを強いられるのは気の毒すぎます。</p>
<p>　この方たちは難民ではありません。（難民だからどんな扱いを受けても良いということでは無論ありませんが）きちんと働き、税金を納め、生活を営んできた日本国民、私たちの同胞です。</p>
<p>　先日原発事故で避難指示区域に指定され、避難生活を強いられていた人々にようやく一時帰宅が認められましたが、一家に一名、滞在時間2時間、という制約付き。なぜ一名なのでしょうか。皆一緒にバスで行くとのことでしたが、バスなど何台でも出せば良いし、それぞれに段ボールでも渡してあげて必要な物を詰めてもらい、後からそれぞれの避難所に届けるくらいの配慮はしてあげてほしい。</p>
<p>　悲しかったのは、牛や豚などの家畜たちの多くが餓死していた、ということでした。手塩にかけて育てていた人々の気持ちを思うとたまりません。せめて一日一時間、防護服を着た人たちが避難指示区域に入って残されている家畜やペットたちに餌だけでも与えることはできないのでしょうか。</p>
<p>　これらの区域は今後、政府の意向で「立ち入り禁止・警戒区域」に指定され、住民でも立ち入れば10万円の罰金が課せられるとのこと。しかしその判断の根拠は示されず、避難民の方たちの苛立ちは察するに余りあるものがあります。</p>
<p>政治に血が通っていません。すべてが後手後手に回り、総理が構想力もなく政治決断もできないために先の見通しが立ちません。</p>
<p>　政府内には「震災復興委員会」が20余りも立ち上げられているようですが、本来必要なのは「大震災復旧・復興省」のようなものを時限立法的に立ち上げて、そこに財源と権限を集中させ、総理のリーダーシップのもと、今すぐやらねばならないことと、長期的な構想に基づいてやることとを仕分けし、国民に説明しながら速やかに実行してゆくというかたちだと思います。官僚バッシングの嵐が吹き荒れた日本ですが、まだ有能で志の高い役人たちも大勢いるはずです。縦割り行政の弊害を打ち壊すチャンスではないでしょうか。</p>
<p>学者先生たちを集めて小田原評定をやっている場合ではありません。</p>
<p>さて前置きが長くなりました。</p>
<p>先回のブログで、ごく手短に「脱原発」への方向性を述べましたが、「日本はCO2削減への国際的な義務を負っており、またこのまま化石燃料を使い続けることによる温暖化、気候変動が非常に危惧される。今後クリーンエネルギーとして原発しかないのでは」という趣旨のメールを何通か頂きました。そしてそれに対して私なりの考えを述べさせていただきました。</p>
<p>　例えば私は「産業革命以来の化石燃料の使用が地球の温暖化・気候変動をもたらした。もしこのまま続ければ地球は大変ことになる」という説について非常に懐疑的です。ましてや　排出量取引　という「国際社会」が作り出したシステムを非常にトリッキーだと感じます。ただその根拠を示すには様々な資料や温暖化説に賛成、反対の双方の学者たちの意見を比較検討しながら論じる必要があり、時間的なゆとりがないので、ここでは原発に反対の立場を取る者として別の角度から考えてみたいと思います。</p>
<p>　先日テレビを見ていて、フィンランドが建設中の、世界初の高レベル放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」（フィンランド語で　隠れた場所　の意）のことを知りました。</p>
<p>　フィンランドの首都ヘルシンキから西へ約250キロ、オルキルオトという島にその施設はあります。島には地下500メートルの辺りに、約18億年前の地層があり、その岩盤を掘削してまるで地下都市のような壮大な建造物を造り始めたのが2004年、完成予定は2100年、つまり22世紀。放射性廃棄物で満杯になった施設は封印されます。そして驚くべきことには、高レベル放射性廃棄物が人間に有害な放射能を出さなくなるまでに大体10万年ほどかかるので、この地下施設も10万年後を想定して造られているのだそうです。</p>
<p>　私は二つの点で大きな衝撃を受けました。</p>
<p>　一つは、10万年後という気の遠くなるような時間に耐える物を造ろうとするフィンランドの人々の強靱な意志と精神です。</p>
<p>　原発などから出る使用済み核燃料は再処理されてウランやプルトニウムなどが抽出されたあとに、低レベルと高レベルの放射性廃棄物となります。ウィキペディアによると</p>
<p>「高レベル放射性廃棄物はその処理が難しく、ロケットで宇宙に飛ばしたりする案があったがロケットの打ち上げに失敗すると全世界に放射能がばら撒かれる危険があるため現在の技術では地層処分のみが有力な方法である」。とあり、「現在世界中でオルキルオトがその唯一の場所である」と書かれています。これだけ世界中に原発が普及しようとしているのに、本格的な最終処理施設は世界にただ一カ所しかない。このことを原発を推進する国の国民は真剣に考えるべきではないでしょうか。</p>
<p>　そしてもう一つは、放射性廃棄物が10万年間に渡って有害な放射能を出し続けるという事実です。</p>
<p>　10万年、それは人間にとっては永遠ともいえる時間であり、むしろ神の領域といえるものです。</p>
<p>人類がこの地球上に残した最初の痕跡は、穴居の壁画あたりから始まると思うのですが、例えば先史時代のスペインのアルタミラの洞窟壁画が約18，000―14，000年前、フランス　ドルドーニュ地方のラスコーの洞窟壁画が約15，000年前、そして「世界の七不思議」の中で唯一現存する建造物である古代エジプトのギザのピラミッドが造られたのが今から約4，450年前、古代ギリシャのパルテノン神殿が2，500年前、日本では例えば縄文前期の中頃から中期にかけて営まれた　三内丸山遺跡が5，500年―4，000年前くらい。世界最古の木造建築である法隆寺が建立されたのが約１，400年前。</p>
<p>10万年後、人類がこの地球上に残した様々な痕跡、建造物や美術や文学や音楽は残り得るのでしょうか。</p>
<p>「オンカロ」を造る人々は、氷河期の再来、その他の要因でホモ・サピエンスが絶滅し別の人類、あるいは異星人が地球上で生息していると仮定し、現在使われているどの言語も解さない未来の地球人のために、この場所が危険であることを知らしめるにはどうすればよいのかと頭を悩ませているとのこと。私はそこになにかしら神話的な世界を感じました。</p>
<p>　ギリシャ神話の神、プロメテウスは、人間に火を与えたことで大神ゼウスの怒りに触れ、人里離れた荒野の岩山の山頂に張り付けられ、日々禿鷹に肝臓をついばまれるという過酷な責め苦を負わされます。</p>
<p>　最近、古代ギリシャの三大悲劇作家の一人アイスキュロスの「縛られたプロメテウス」を録音図書で聞きましたが、それによれば、プロメテウスが人間に与えたものは火ばかりではありません。</p>
<p>例えば、人間たちに自らの運命を前もって見えないようにしてやり、盲目的な「希望」を与えてやった。そして</p>
<p>「彼らはもともと何かを見てもただ徒に見るばかり。聞いても悟るわけでなく、夢の世界の幻のよう。命の限りを行き当たりばったりに過ごしていった。</p>
<p>また暖かい煉瓦造りの家とても、材木の仕立てようとて知らずにいて、ちっぽけな蟻どものよう。地面の下の日も当たらぬ洞窟の奥戸に住まいしていた。</p>
<p>彼らにとっては嵐の冬も、花咲き匂う春の日も、また実りたわわな夏の日を見分ける定かな印とてもなく、ただ無考えになにもかもやっていたのだ。ことにまた気の利いた工夫の中でも一番の数というもの、それも私が彼らのために見つけたものだ。また文字を書き、また綴る技も。あるいは野生の獣を捕まえて繋ぎ、くびきについて働くようにも私が最初にしてやったのだ」。</p>
<p>（「縛られたプロメテウス」より　呉茂一訳）</p>
<p>その他にも、プロメテウスは造船技術、医術、金銀など鉱物資源の見つけ方などを人間に伝授したことになっています。要するにプロメテウスは旧石器時代から有史時代に至るまで人類が獲得した様々な知恵や技術を与えた神ということになるわけですが、それでもプロメテウスといえばもっぱら、人間に「火」を与えたことでゼウスの怒りに触れた神として知られています。それは「火」が人類の科学技術の発達と結びついているからなのだと思います。</p>
<p>　火　とはエネルギーであり、それは様々なテクノロジーへと人間を導いてゆきます。劇中でも、プロメテウスは、</p>
<p>「それに加えて　火　をまで私は彼らにくれてやった。それからして様々な技術を学び知ることだろう」。（同上）と言っています。</p>
<p>　けれども、そのプロメテウスでも「原子力」という「火」を人間が手に入れることは決して許さなかったと思います。人間と神の違い、それは無論神が不死なのに対して、人間が「死すべき者」である、という点です。そして人間の作り出す文化も文明も永遠のものではあり得ません。</p>
<p>10万年間も、人間や、そしてこの地球上に存在するすべてのいのちに有害な放射能を出し続ける原子力という「火」は人間の手には負えない、人間が手に入れてはいけなかったエネルギーなのだと思います。</p>
<p>とりわけこの地震国の日本に、10万年間放射性廃棄物を地層処理できる場所などないのですから。</p>
<p>尚、「オンカロ」を描いたドキュメンタリー映画「10万年後の安全」が、現在各地で上映中とのことです。</p>
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		<title>再び　東日本大震災について思うこと</title>
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		<pubDate>Tue, 12 Apr 2011 07:36:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[　テレビの報道に接していると余りに悲しい話が多く、特に今は農業や牧畜、漁業に従事されている方たちが、丹精込めて育てあるいは漁獲したものが放射能汚染のために、あるいは風評被害によって受け取りを拒否されたり値が暴落している、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　テレビの報道に接していると余りに悲しい話が多く、特に今は農業や牧畜、漁業に従事されている方たちが、丹精込めて育てあるいは漁獲したものが放射能汚染のために、あるいは風評被害によって受け取りを拒否されたり値が暴落している、といったニュースを聞くのは辛いことです。震災の被害者としてすでに大きな痛手を受けているこの方たちに運命はどこまで過酷なのかと心が暗くなります。</p>
<p>　でもそんな中、胸が締め付けられるとても感動的な話を知人から聞くことができました。3月18日放送のNHK「ニュースウォッチ９」で紹介されたそうなのでご覧になった方も多いことと思いますがそれは次のような話です。</p>
<p>　岩手県釜石市は昔から度々津波に襲われてきましたが、そこで防災・危機管理アドバイザーを務めていた群馬大学の片田敏孝教授は「津波の被害者ゼロ」を目標に度々現地を訪れ、小中学生たちに防災教育を行ってきました。釜石東中学は海に近く、すぐ隣に小学校があり、教授は中学生たちに、「避難する時は小学生たちの手を引いて誘導し、高台に逃げるんだよ」と教えてきました。地震発生の数日後、初めて被災地を訪れた教授は瓦礫の山と化した町の想像を遙かに超える被害の大きさに驚き、自分が小学生の手を引いて避難するように指導してきたことで釜石東中学校の生徒たちが逃げ遅れたのではないかと不安に苛まれます。しかし教授が教えておいた所よりも更に上の避難所に彼らは全員無事に避難していました。感動の再会、そして涙ながらに子供たち一人一人の労をねぎらう教授の姿、番組の最後に、小学生の手をしっかりと握りしめて落ち着いて避難してゆく中学生たちの姿が映し出され、そのスナップ写真を見て思わず泣けてきた、と知人が言い、私も彼らの姿を想像して涙が溢れました。</p>
<p>　子供たちが避難を開始して数分後にはすでに津波が５階建て校舎の3階にまで達していたという、生命の危険に晒され、大抵の大人でもパニックに陥る恐怖の中で、中学生たち全員に、これほどまでに冷静な行動を取らせたものはなんだったのでしょうか。</p>
<p>　私はそこに、人間が本来持っている「善なるもの」を引き出す教育の最も輝かしい成果を見るような気がします。片田教授に寄せる子供たちの信頼感、そして教授が子供たちの中に呼び覚ました、年下の者を守るという責任感と使命感、それが危急の時に子供たちに教授から教えられた通りの行動をとらせたのだと思います。そこには単なる知識を教えることより大切な教育というものの一つの可能性があります。この小中学生たちがどのような大人に成長してゆくのかが楽しみです。</p>
<p>　この物語を誰かが絵本にして日本中、世界中の小学生たちに読ませたらと思うのですが・・・。</p>
<p>　思えば長い間、私どもは日本社会の倫理道徳の荒廃を嘆き続けてきました。親殺し、子殺し、いじめ、無縁社会・・・。日本人はその歴史と伝統の中で大切にしてきた義理や人情や惻隠の情、そして自然への畏敬の念などを見失ってしまったのではないかと不安でした。今回この未曾有の大災害の中で、東北にはまだそういったものが残っていたのか、と思われる場面がとても多くてその都度はっとさせられます。</p>
<p>　今回大震災に襲われた福島県、宮城県、岩手県はいわゆる「陸奥　みちのく」であり、平安貴族の憧れの地でした。数々の名歌に詠み込まれた歌枕の多くが陸奥の地名にちなんで作られています。そしてその伝統が西行の絶唱を産み、芭蕉の「奥の細道」に繋がりました。そんな東北地方が明治維新以降、経済的発展から取り残されて今日に至っています。その地の人々の言動が今世界中の人々の感動と共感を呼び、世界各地で「日本の被災者を救おう」という運動が巻き起こっているのを見るとき、私どもはそこから何ごとかを学びつつ、これからの日本の在り方を考えてゆくべきではないでしょうか。</p>
<p>　さて、このところ原発に関して、賛成派、反対派、双方からメールが送られてきますが、個人的には私は、この国に於ける新たな原発の建設はあり得ないと考えています。私は元々原発に対しては大きな懸念を抱いてきましたが、今回の福島原発事故で私どもが痛感したのは、日本中どこを探しても原発を建設するための絶対安全な場所などない、ということではないでしょうか。日本中どこでも「想定外」の巨大地震は起こりえます。そしてひとたび原発事故が起きれば、目にも見えず、臭いもしない放射能は大地を、海を、空気を数十年に渡って汚染し続け、人々の健康を蝕み、農業や漁業に甚大な被害を与え続けます。それは他のエネルギーと根本的に異なる、核というものの恐ろしさです。福島原発の20キロ、30キロ圏内に住む方々の怒りや苦しみを見れば、今後日本人は自分たちの町や村の近くに原発が建設されることを金輪際許さないでしょう。</p>
<p>　すべての原発をいっぺんに止めることは無理でも、10年くらいかけて、火力や水力による発電とともに、風力、太陽光、地熱、バイオマス等々の自然エネルギーによる発電技術の向上に力を注いで、脱原発、脱石油に於いて世界をリードするべく、総力を結集するべきだと思います。</p>
<p>　また日本海海底に大量に埋蔵され、CO2排出量が少ないことでも注目されているメタンハイドレートという天然資源の採掘を早急に始めるべきではないかと思います。素人には分からない色々な事情があるのだとは思いますが、日本の優れた技術力はこういう時に力を発揮するのではないのでしょうか。</p>
<p>　同時に私どもは、節電のための生活スタイルの見直しを迫られています。</p>
<p>　例えば少しの暑さも寒さも我慢しないで、すぐに冷暖房に頼る生活、あるいは、ホテルやレストランががんがんと冷房を効かせ、夏でも上着が必要、といったことは改めるべきではないかと思います。</p>
<p>　幸いなことに日本には耐え難いほどの暑さも寒さもありません。昔の話で恐縮ですが我が家も私が大学に入る頃まで、冬は炭の炬燵と火鉢に湯たんぽ、夏はせいぜい扇風機やうちわでしたが、それで辛いと思ったことはありません。</p>
<p>　今地元の人々を苦しめている福島原発で作られた電力を消費していたのは首都圏に住む我々でした。それを思えば、少しくらいの我慢はせねばと思っています。</p>
<p>　一人一人の知恵と工夫によって節電し、とりあえず今年の夏を計画停電なしに乗り切れれば、私どもは原発のない世界を目指す第一歩を踏み出すことができるかもしれません。</p>
<p>　さて１０日の日曜日の朝、テレビ朝日で、宮城県気仙沼市の隣町で牡蠣とホタテの養殖に携わっている漁師の方たちが紹介されていました。</p>
<p>　今回の津波で養殖用のいかだはすべて流され、その日彼らはようやく、10個ほどのいかだを回収して修理を始めていました。もちろん牡蠣もホタテも全滅し、収穫までこれから２，3年はかかるとのこと。その間収入は得られません。</p>
<p>　彼らは以前にも海が汚染され牡蠣が全滅するという苦難を味わいました。川の水の汚れが原因と分かり、彼らはその時、「森は海の恋人」を合い言葉に山に植林を始め、そしてその結果森は蘇り、海に流れこむ川の水は浄化され、海は再び豊穣の海となって素晴らしい牡蠣やホタテができるようになりました。そして再び今回の大災害。しかし彼らはくじけません。ある漁師が瓦礫で埋まり、油の浮く海を前に言います。「海は一年でまた元に戻る」そしてある初老の漁師が言った言葉。</p>
<p>　「三陸の漁師町で昔から言われてきた言葉がある。『目は臆病、手は鬼になる』」</p>
<p>　豊かな海の恵みを受けながら、時として牙をむく海と辛抱強く闘ってきた海の男たちの言葉でした。そして彼は続けます。</p>
<p>　「手は不可能を可能にする。いつまでも後ろを向いていてもしょうがない。少しでも前を向いて進まなきゃ」</p>
<p>　そこに私は一人の現代のシーシュポス（前のブログで触れたギリシャ神話中の人物）の高貴な姿を見たように思いました。</p>
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		<title>東日本大震災とカミュの「ペスト」</title>
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		<pubDate>Mon, 04 Apr 2011 00:50:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[数日前、日本点字図書館からお借りしていたテープ図書２ケースをポストに返却しました。日点によるテープ図書の貸し出しが３月で終了するため、それは私が借りた最後のテープとなりました。録音図書はこれからもディスクに録音されたデー [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>数日前、日本点字図書館からお借りしていたテープ図書２ケースをポストに返却しました。日点によるテープ図書の貸し出しが３月で終了するため、それは私が借りた最後のテープとなりました。録音図書はこれからもディスクに録音されたデージー図書などを引き続きお借りすることはできるのですが、私にとって１９９６年以来１５年間慣れ親しんだテープ図書を聞くことはもうないのだと思うと多少の感慨を覚えて、ポストに落ちるケースの音が胸に響きました。</p>
<p>　最後のテープ図書を何にしようか、と考えていた頃、それはまだ地震の直後で、千年に一度ともいわれるこの大災害の被害の全容も分からず、多くの人を襲った余りに過酷な運命と、原発事故という決して起こってはならなかった事態に気が動転する日々でした。そして一方で私どもがテレビなどで目にしたのは、家も土地も失い、家族の安否も分からない、などの極限状況の中でなお、、譲り合いの精神や他人への気遣い、感謝の気持ちを忘れず、秩序を保つ、驚くほど忍耐強い人々の姿でした。</p>
<p>　ふと学生時代に読んだアルベール・カミュの「ペスト」を思い出しました。ペストに襲われて封鎖され外部との接触を一切断たれ、恐怖と絶望が支配する町で、淡々と、黙々と自分の職務に邁進することによって、この不条理な状況と闘う医師ベルナール・リウーとその仲間たちの物語はワクワクするような面白さはないものの、大きな手応えを感じさせた小説でした。</p>
<p>仏文を専攻した学生時代、私にとってカミュは最も惹かれた作家の一人でした。私のフランス語は大変未熟なものでしたがそれでもその明晰で端正な文体は読んでいて心地よく、その思想や感性は心に深く触れてくるものがありました。とりわけ故郷アルジェリアの自然を語る彼の文章は実に美しくて、エッセイ　La Noce結婚　に漂う深い詩情と、一種異教的、汎神論的な世界は魅力的でした。余りに強烈な太陽の光に焦がされる大地はむしろ暗く、太陽と大地は深く結ばれ、そこにどこからともなく吹く風・・・。カミュの作品とその文体の背景に、私はいつもこの地中海的な風土を感じていました。</p>
<p>第二次大戦中の１９４２年に発表された「シーシュポスの神話」Le Mythe de Sisypheはカミュの思想の原型を示すものでした。ギリシャ神話で語られるシーシュポスは、神々に反抗し、生に執着しすぎたために神々の怒りをかい、考え得る限り最も残酷な刑に処せられます。重い岩を山頂に運び上げると岩はすぐに下まで転がり落ちる。それをまた山頂に運び上げる。それを永遠に繰り返す、というものでした。全身全霊を込めて岩を山頂に運び、それが転がり落ちるのを見届けて、山を降り、また岩を頂上まで運び上げる、という苦役に黙々と耐えるシーシュポスにカミュは「不条理の英雄」の姿を見ます。</p>
<p>当時共産党に入党していたカミュは、目的も達成感もなく毎日同じ仕事に明け暮れるプロレタリアートたちの生活にこのシーシュポスの姿を重ね合わせていますが、それはまた、人間の置かれている根源的な条件と生きることの意味を問いかけるものでもありました。</p>
<p>そしてシーシュポスは、戦争直後の１９４７年に発表された「ペスト」の医師リウーの姿と重なります。ペストが終焉に向かうなか、同志ジャン・タルーがペストで死亡するのを看取り、療養中だった愛する妻の死を淡々と受け止め・・・。不条理な世界の中で運命に翻弄されながらも、自分の職務を全うすることに全力を尽くすリウーもまた、「不条理な世界に反抗する人間」「不条理の英雄なのだと思います。</p>
<p>それはまた、地震直後から福島原発事故の現場で危険も顧みず、家族の安否を確認するいとまさえなく不眠不休で最悪自体を回避するために働き、世界で「fukusima fifety」と讃えられた原発保安員の方々、その他無数の、過酷な運命を受け止め、渾身の力で役目を果たそうとする人々の姿でした。</p>
<p>よく「ペスト」はナチ占領下のフランスを描いたものだといわれます。そして共産党に入党し、レジスタンスに加わったカミュはサルトルを初めとする多くの同志と共に闘い、そして歓喜のパリ解放を迎えます。しかし共産党入党は彼にとっておそらくはナチスへのレジスタンスの手段であって、カミュ自身は共産主義イデオロギーとは距離を置いていたのではないでしょうか。</p>
<p>　１９５１年、「反抗的人間」を出版してから、あくまで共産主義革命を目指すサルトルたちとの立場の違いは鮮明になり、サルトルは革命に於ける政治的な暴力まで否定するカミュの態度を「曖昧である」と批判して「サルトル・カミュ論争」が起こります。</p>
<p>　私が早稲田大学に入学したのは１９６４年ですが、当時の学生たち、特に私ども仏文の学生たちにとってこの論争はなお避けて通れない問題を提起していました。</p>
<p>キューバ革命が成立したのが１９５９年、翌年が日米安保反対闘争、１９６４年にはアメリカが自作自演のトンキン湾事件を口実に北爆を開始。そして１９６５年早稲田では学費値上げ反対闘争によって大学は封鎖され授業はほとんど行われませんでした。そんな時代、権力や圧政と闘い、打倒するために暴力的手段を肯定するサルトルはある意味分かりやすかったとも言えます。けれども、カミュの唱える「反抗」とは、生命や尊厳が冒される苦しく厳しい状況の下、そこから目をそむけず、明晰さを保ったままある限りの力を尽くしてその状況に反抗する、ということであり、そしてその「反抗」が他者のためのものであるとき、そこに連帯が生まれる、と唱えます。革命の理論としては確かに曖昧かもしれませんが、それはプロレタリア革命よりもより普遍的、根源的な闘いを意味しており。ポスト冷戦の今の世界では、より今日的であるともいえると思います。</p>
<p>　連日地震や津波の被害や福島原発事故の報道が流れる中、「ペスト」のテープを聴くことは私にとって正直かなり辛いものでした。そして小説の中では、ペストは終演し、人々の歓喜の声を聞きながら、リウーは自分が見、経験したすべてのことを記録として残すことを決意するのですが、日本では時間が経てば経つほど、事態は混乱し、深刻さを増して、まだ復旧も復興も少しも筋道が見えません。</p>
<p>私は常々、この国は船長もいないまま、目的地も定まらずにただ漂っている、と感じているのですが、被災者の方たちの置かれている大変厳しい状況やそのお気持ちを思うとただ政治批判をしているわけにもいかず、悶々とする日々です。</p>
<p>大きな青写真を掲げて、被災者の方たちへのとりあえずの迅速な支援と、その先の、人々が希望を持てる復興への筋道を示すことが大事だと思います。それが分かりやすい形で提示されれば、多くの日本人は、それに協力する心の準備はできていると思います。今の日本にそのリーダーシップをとれる能力を持った人間はいないのでしょうか。</p>
<p>この混乱状態のなかで、僅かながらでも未来への光明が見いだせるとしたら、それはこれを契機に、戦後余りに経済優先だった国の在り方や自然との関わり方、エネルギー政策の在り方などを問い直すべきだという声がちらほらと出てきていることです。余りに多くの方が犠牲になったこの大震災が日本再生のきっかけとなった、と後生の歴史に語られる日が来ることを祈らずにはいられません。日本人の叡智が問われています。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>１９８１年フランスの政権交代と民主党代表選</title>
		<link>http://www.nihonno-sosei.com/blog/287</link>
		<comments>http://www.nihonno-sosei.com/blog/287#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 21 Sep 2010 02:48:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[１９８１年、私どもがパリから帰国した年にフランスでは歴史的な大統領選挙が行われました。
&#8195;当初は現職のフランス民主連合Union pour la Démocratie Françaiseジスカール・デスタンが有 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>１９８１年、私どもがパリから帰国した年にフランスでは歴史的な大統領選挙が行われました。<br />
&emsp;当初は現職のフランス民主連合Union pour la Démocratie Françaiseジスカール・デスタンが有利とされていましたが第一回投票後の決選投票の結果は大方の予想に反してフランソワ・ミッテランが勝利を収め、フランス史上初めてのソシアリスト社会主義者の大統領の誕生となりました。勝利が決まった瞬間ミッテランが[C'est pas vrai]（まさか！）と呟いたと伝えられましたが、それくらい劇的な政権交代でフランス全土が興奮に包まれました。テレビ画面から伝わってくる人々の熱狂ぶりが面白かったのか３才の長男はシュプレヒコールのイントネーションそっくりに「ミッテラン、ミッテラン」と連呼しながらアパートの庭や公園を駆け回って私どもは少しばかりきまりが悪かったものです。</p>
<p>&emsp;ミッテランは二期１４年間に渡って大統領を務めました。<br />
&emsp;内政では有給休暇の四週間から六週間への拡大、法定労働時間の短縮、社会保障費の拡大、年金支給年齢の引き下げ、大企業の国有化、死刑制度の廃止などの社会主義的な政策を実行しましたが、一方で武器の輸出を続け、核抑止力をフランスの安全保障の基本に据え、アメリカとは一線を画す独自外交を展開するなど、現実的、国家主義的な政策も目立ちました。戦後のフランス政治の根幹をなすものはゴーリズム（ド・ゴール主義）であると思うのですが、そういう意味で、社会主義者のミッテランもまたゴーリスト（「偉大なフランスの栄光」を追求したド・ゴール大統領の路線の信奉者）的な面を強く持っていたように思います。冷戦下、ソ連がミッテランとドイツのコール首相の会話の盗聴を試みたが、芸術や文化の話ばかりで戸惑った、というエピソードを読んだことがありますが、ミッテランはフランスの歴史や文化に精通した知識人であり、よく知られた文章家であり、その意味でフランスの誇りを体現していました。</p>
<p>&emsp;そのミッテランが、フランスと世界の歴史に名前を残すとしたら、やはり、ＥＣ（EUROPEAN  COMMUNITY)からＥＵ（EUROPEAN  UNION)へと転換した、マーストリヒト条約の締結（１９９２年）によってではないでしょうか。この条約によって、ヨーロッパは、それまでの経済統合から、国境を取り払い、共通の通貨、外交、安全保障を目指す、連合国家としての道を歩み始めることになります。<br />
&emsp;個人的には私はそれぞれの国が多様で多彩な歴史や文化や風土を持つヨーロッパがそれぞれの独自性を失って一つの国家となってゆくのは残念であり、あくまでも「緩やかな統合」であってほしい、と願うものですが、１９２３年にチェコボヘミアの貴族で日本人を母に持つクーデンホーフカレルギーによって掲げられた「戦争のないヨーロッパ」という理想を驚異的な粘り強さで実現させてきたヨーロッパ政治の力強い歩みには感嘆させられます。これは「日本の蘇生」でも書いたことですが、ナポレオンやヒットラーが挑んだヨーロッパの統合は、歴史上初めて武力によらず、一つの理念によって実現されることになったのです。</p>
<p>&emsp;とりわけ、数世紀に渡って絶えず相争ってきたフランスとドイツは戦後、二国とも長期安定政権が続き、ド・ゴールとアデナウアー、ジスカール・デスタンとシュミット、ミッテランとコール、と対話を継続させて双方の国民が抱いていた憎悪や不信感を時間をかけて解きほぐしてゆきました。その点でフランスにとっては、第五共和制という、大統領に強い権限を持たせた安定的な政体を発足させたド・ゴールの功績は大きかったように思います。<br />
&emsp;とりわけミッテランと、１９８２年に西ドイツの首相になったコールは共に１０年以上在職し、歴史的使命感を共有し、再び戦火を交えることのない、互いに支え合うヨーロッパの未来に向かって歩んでいったという印象を持っています。</p>
<p>&emsp;このように戦後のフランスと世界の歴史に大きな足跡を残したミッテランですが、私の印象では、大統領になる前の評判は決して芳しいものではありませんでした。あだ名は　狐　つまり狡猾な奴。そして変節漢というイメージがつきまとっていました。それは彼の経歴を調べれば致し方のない事で、若い頃は反ユダヤの極右団体「アクション・フランセーズ」に所属。ドイツ占領下のペタン元帥率いる対独協力のヴィシー政権で政治家としてのスタートを切り活躍するもやがてド・ゴールの対独レジスタンスに参加して終戦を迎えることになります。<br />
&emsp;戦後は第四共和制下、複数の内閣の閣僚として活躍しますが、戦後の民族自決の流れの中、アルジェリアがフランスの植民地支配からの独立闘争を始めると、最も強硬に弾圧を主張した政治家の一人でもありました。<br />
&emsp;しかし１９８１年から１９９６年という、冷戦からポスト冷戦にかけての複雑な国際情勢の中、フランスが必要としたのは、様々な試練をくぐり抜ける中で培われてきた彼のしたたかさ、しぶとさ、粘り強さではなかったかと思います。</p>
<p>&emsp;日本も昨年ようやく戦後初めての本格的な政権交代を経験しました。そして昨日私どもは自国の総理大臣が「この１年間は、いろいろな意味で試行錯誤を繰り返してきた１年だった」と言うのを聞きました。自分たちが行ってきた政治が錯誤であったとあっさり認めた訳ですが、世界情勢が刻々と変化し、同時に日本の地盤沈下が進んでゆくこの危機の時代に総理がこのような発言をするのは、自分たちが政権担当能力が無い、と自ら認めるようなもので、国民の不安感は募ります。<br />
&emsp;この一年間に私が思い知らされたのは、一国の指導者たるもの、ただ単にクリーンで好人物で理念をもっているだけではダメなんだということでした。自らの信念や理念、国家ビジョンを貫き通す胆力、実行力、強さ、しぶとさ、粘り強さ。ミッテランのように、狡猾といわれようが、変節感といわれようが、機密保持の為に側近たちを消した、と囁かれようが、ブレるよりはいい。<br />
&emsp;そんな思いから民主党の代表選の間、私は改めて小沢一郎という政治家について考えてみました。<br />
&emsp;私は明治維新以来現在に至るまでの最高の政治家は大久保利通であり、彼個人の卓越した指導力と構想力なくして日本があれほど速やかに、そして鮮やかに近代国家へと脱皮することは不可能であったと思っています。その謹厳で高潔な人柄は、金権体質といわれ、壊し屋の異名を持ち、政治と金の問題で何度も検察に追いつめられてきた小沢とはまるで違うのですが、歴史の転換期に求められているのはなによりも、卓越した個人のリーダーシップであることは古今の歴史が証明しており、一度「豪腕小沢」に思う存分やらせてみたら、という気持ちも捨て切れません。<br />
&emsp;実は政策面では彼ほど一貫して明確な政策を掲げてきた政治家は戦後の日本では少ないように思います。<br />
&emsp;今から１７年前の１９９３年に息子に勧められて「日本改造計画」を読んだ時、小沢の日本の国の在り方への強い危機感と改革への情熱を感じました。今回インターネットでその内容を調べてみると、彼の主張には現在に至るまでブレがないことが分かります。ちなみに主な内容は、</p>
<p>・迷惑な｢指導力の欠如」<br />
・権力を行使しない危険<br />
・政府は「企業弁護士」か<br />
・首相官邸の機能を強化<br />
・官僚が決定権者か<br />
・なぜ小選挙区制がいいか<br />
・政党による政策の選挙<br />
・全国を300の「市」にー財源の移譲を含む地方分権の推進<br />
・生かされていない官僚の頭脳<br />
・誤解されている「吉田ドクトリン」<br />
・国連待機軍をつくれー国連中心主義の実践<br />
・「世界貿易機構」をつくる<br />
・「アジア・太平洋閣僚会議」の常設<br />
・10万人留学生の受け入れ<br />
・個人を大切にする社会<br />
・都市に住宅、地方に雇用<br />
・所得税・住民税を半分に<br />
・自由な人生設計ができない日本人<br />
・高齢者の職場参加を進める<br />
・女性も選択が可能な社会を<br />
・管理型行政からルール型行政へ<br />
・新・教師聖職論</p>
<p>などとなっています。冷戦終結後の世界の変化を見越して、日本が向かうべき方向性がかなり具体的に示されていますが、この中で実現したのが小選挙区制の導入とマニフェスト選挙。そして政権交代。後は１７年経った今も何も実現していません。<br />
&emsp;中央集権から地方分権へ。対米従属一辺倒から脱して、アセアン＋３（日中韓）にアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドまで含めた広域の経済共同体とその先にある集団安全保障体制の構築、アメリカが支配する世界から国連を中心とした世界の安全保障体制への移行。行き過ぎた管理社会から国民を解放し、働き方の選択肢を広げる、という発想、等々、この中にはこれから日本が真剣に追求してゆかねばならない課題が多く含まれています。<br />
&emsp;また「女性も選択可能な社会を」に関して小沢は今回の代表選中テレビ朝日の番組で、<br />
「子供手当はマニフェスト通り全額支給するべきだが、少子化対策としてはそれだけでは不十分。女性の働き方の自由を社会が保障しなくてはダメだ」<br />
と発言していました。この辺りもっと司会者に突っ込んでもらいたかったのですが、これは多分ワークシェアリング的な発想で、子育ての一時期、パートタイマーとしての短時間労働でも雇用条件や税制、年金制度が正社員並に保証され、子供が手がかからなくなった時に再びフルタイムで働けるという、ヨーロッパで１９９０年代に広まったシステムを１９９３年の時点ですでに考えていたのではないかとも思えます。<br />
&emsp;その他、<br />
「私が総理になったら政治主導を徹底するが、官僚が不要などとは言っていない。日本の官僚は極めて優秀であり、政治家がリーダーシップを取り、責任を持ったうえで、官僚に仕事をしてもらうべきだ」<br />
「同盟関係というのは従属関係ではない」<br />
「日米関係は日本にとって最重要の二国間関係だが、同時に東アジア、アセアン、太平洋地域まで含めた多国間の同盟関係を築いてゆくべきだ」<br />
「円高で騒いでいるが自国の通貨が高いということは決して悪いことばかりではない。例えば資源獲得に動くなど、これをチャンスと見る発想が必要」<br />
「これからのアジアの時代、各国とのＦＴＡ交渉を速やかに成立させて市場を拡大してゆくチャンスである」<br />
等々、私にとっては正論であると思える発言が色々ありました。ただテレビでは司会者が「予算の財源はどうやって確保するのか」「政治と金の問題について国民にどのように説明するのか」といったことばかりに拘って少しも議論が深まらないのはいつもの事でしたが。<br />
&emsp;小沢は単なる金の亡者なのか。それとも総理となって現代の日本に真に必要な変革を実行し得る腹の据わった政治家なのか。判断が付きかねる、と思っているうちに代表選は管の圧勝で終わりました。<br />
&emsp;国会議員の投票に入る前の管総理の、全員参加の内閣による政治を行う、という演説に、一体この軽さはなんなのだろう。この人は一国の宰相の地位をなんと心得ているのだろうかとガックリきました。ただひたすら、みんなで力を合わせて頑張ろう、というだけで、その演説のどこにも彼の描く具体的な国家ビジョンも未来に向けての成長戦略も見えてきませんでした。これまでの主張や政策を具体的なイメージと共に語った、熱の籠もった、危機感漂う演説を行った小沢との間の政治家としての格の違いは大きなものがありました。<br />
&emsp;また世論の動向を見、世論に迎合しながらフラフラと政治を行って行くつもりなのでしょうか。<br />
&emsp;ポスト冷戦のこの２０年、日本は目先の経済対策に追われ、行うべき様々な変革に手を付けず、一方で小泉改革によって戦後築いてきた安定した社会を根底から破壊してきました。<br />
スタートした管内閣がこの激動の時代に少しでも日本が向かうべき方向性を示せるのかどうか。暫くは見守りたいと思います。</p>
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		<title>命が軽んじられる社会</title>
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		<pubDate>Fri, 13 Aug 2010 01:25:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・文化・政治のコーナー]]></category>

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		<description><![CDATA[　このところ今の日本社会で倫理・道徳が益々廃れ、人心が荒廃していることをひしひしと感ぜざるを得ない出来事が続いて、暗澹たる気持ちになります。
　親殺し、子殺しがこれほど頻発する社会が他にあるだろうか、と私は常々思っている [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　このところ今の日本社会で倫理・道徳が益々廃れ、人心が荒廃していることをひしひしと感ぜざるを得ない出来事が続いて、暗澹たる気持ちになります。<br />
　親殺し、子殺しがこれほど頻発する社会が他にあるだろうか、と私は常々思っているのですが、今回大阪のマンションで１才と３才の幼子二人の遺体が発見されたというニュースは、余りの痛ましさに、子供を産み育てた者の一人として慟哭を禁じ得ませんでした。<br />
　本来ならば何にかえても守ってやらねばならない、親以外に頼る術のない幼い我が子をアパートに残して内側からは開けられないようにして家を出、「一週間後に、子供たちは死んでいるかもしれないと思ったが助けてやろうという気持ちにならなかった」という母親の証言には戦慄を覚えますが、インターフォンがはずれていて、子供たちの泣き叫ぶ声は外に漏れていたらしいのに、児童相談所に通報する以外に、この子等の命を救うために何等成し得なかった周りの大人達。そしてこれほどの事態にも中に踏み込んで子供達を救い出そうとしない児童相談所の職員達。惻隠の情　というものがすっかり影を潜めてしまったこの社会が助けを呼ぶ幼子の命を見殺しにしてしまったと感じました。<br />
　もちろん私の身近で同じようなことが起こった時、私もなにもできないかもしれません。でもできることなら、子供たちの命を救う為に力を尽くしたい。喩え住居侵入罪に問われようともあの子たちを連れ出し、お風呂に入れて美味しい食事を食べさせて、抱きしめてやりたかった、などと思いました。<br />
　無論親が子を殺す、というおよそ他の動物には見られないことが日常茶飯事的に起こっている今の日本で、このような個人のセンチメンタリズムは何等問題の解決にはならないのですが。</p>
<p>　この悲しいニュースの数日後、今度は家族崩壊の行き着く果てを私どもは見せつけられる事になりました。都内最高齢の百十三才の女性の所在が不明になっており、一緒に住んでいるとされていた長女は「母親とはもう二十年以上会っていない。次男と一緒に暮らしているのだと思う」<br />
　次男は「アパートで母親と一緒に住んでいたが、２０～３０年以上前、アパートからいなくなった。その後の行方は分からない」<br />
　次女は「だれがどこにいるのかも分からない。約４０年前から、母親、姉、弟と連絡はとっていない」<br />
　いずれも七十代で都内に住んでいるこの三人の、親きょうだいに対するここまでの無関心には愕然とさせられます。彼等も五人家族として一つ屋根の下に暮らしていた時期があったはずで、とりわけ自分たちをこの世に産み落とし育ててくれた母親に対して、喩えなにがあろうとも、ここまで冷淡になれるというのは不可解です。<br />
　その後次々と百才以上で所在が確認できないお年寄りの存在が発覚し、それは海外でも大きく報道されて世界の人々を驚かせることになりました。</p>
<p>　日本社会の劣化を物語るこの種の報道に接する時、私がよく思い浮かべるのは、新渡戸稲造の「武士道」序文にある一つのエピソードです。彼は次のように書いています。<br />
「約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラブレー氏の歓待を受け、その許で数日を過ごしたが、ある日の散歩の際私どもの話題が宗教の問題に向いた。「貴方のお国の教育には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」とこの尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるやいなや、彼はうち驚いて突然歩みを止め、「宗教無しでどうして道徳教育を授けるのですか」と繰り返し言ったその声を私は容易に忘れ得ない。当時この質問は私をまごつかせた。私は此に即答できなかった。というのは私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻孔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見いだしたのである」。</p>
<p>「武士道」は１９００年にアメリカで英文で出版され、時の大統領テオドア・ルーズベルトが感動して知人達に贈呈するなど、アメリカやイギリスでベストセラーとなり、ヨーロッパ各国でも次々と翻訳がでて広く読まれたようです。<br />
　宗教教育は無くとも、武士階級のみならず、広く社会が共有していた「武士道」の精神は日本人の倫理観・道徳観をある時期まで堅固に支えていたと思います。</p>
<p>　様々な物を外部から柔軟に受容し、融合し、日本人の美意識で磨いて行く、というのが日本文化の際だった特徴だと私は常々考えてきましたが、度々書いてきたように、「武士道」には将に歴史の中で育まれた様々な要素が混在しています。漢字と共に入ってきた儒教の倫理観、神道に見られる「禊ぎ」の思想、鎌倉武士たちの「名こを惜しけれ」という強烈な名誉心、禅宗の影響を受けた「自己を無にして修行を積み道を究める」という思想・・・・・。<br />
　新渡戸稲造も言うように、「武士道は、その表徴たる桜花と同じく日本の土地に固有の花」なのです。<br />
　ところが日本人が一千年以上の長きに渡って育んできたこの「日本の土地に固有の花」は、新渡戸稲造が「武士道」を出版してから百年余りしかたっていないのに、今の日本社会で影を潜め、日本は社会が共有する倫理観や道徳観を失ってしまったようです。それは私が「日本の蘇生」を書くに至った危機感の一つであり、ド・ラブレー教授の<br />
「宗教無しでどうして道徳教育を授けるのですか」<br />
という言葉は一層切実に私共に問題を提起しているように思います。<br />
　新渡戸稲造も書いているように、武士道とは学校で教わるものではなく、教科書があるわけでもなく、社会や家庭で伝承され、以心伝心教えられてきた規範であったわけですが、現代日本の社会や家庭にそのようなことを期待することはできそうにもありません。だとすれば、私どもが僅かに期待を託せるのは日本で最低九年間は通うことが義務づけられている「教育」ということになります。<br />
　私は「日本の蘇生」の中で、津田桃子という一教師に託して私の理想の教育論を語ってみましたが、その中の主な主張の一つが「和の空間が子供たちを変える」というものでした。日本の子供や若者たちが日本的美の一つの結晶である和室を知らないで育つのは誠に残念なことです。せめて公立の中高に和室を作り、そこで正座をさせ、日本的礼法や敬語の使い方を教え、習字をさせ、四季の移ろいに敏感な心を育み、日本や中国の古典を学ばせる、といった試みができないものでしょうか。<br />
　無論日教組に牛耳られている今の日本の教育の現状ではこんなことは夢物語に過ぎず、そして今の日本が抱える最大の問題の一つはそこにあると思います。日本人の不幸は、戦前軍部がナショナリズムを煽って悲惨な戦争に国民を駆り立てたため、「日本の文化を取り戻そう」という主張がとかく偏狭なナショナリズムや愛国心と混同されてしまう点で、本来その国の風土や歴史の中で育まれた文化を大切にし、守り伝えて行くことはナショナリズムとはなんの関係もありません。<br />
　そもそもナショナリズムというのも国民国家成立の過程で近代のヨーロッパが国民に国家意識を植え付けるために煽ったイデオロギーであり、日本が開国と共に受け入れてしまったものの一つに過ぎません。<br />
　明治維新以来の「脱亜入欧」と戦後社会の「アメリカ化」、そして経済大国への道をひた走る過程で日本が惜しげもなく捨て去ってきたもろもろの物を取り戻す時期がきているのではないだろうか。そろそろ国民は覚醒してもよいのではないだろうか。それが私の未来への微かな希望なのです。</p>
<p>　無論自国の文化を大切にする心は、他国の文化や伝統を尊重する心に繋がります。それぞれの国にはそれぞれの土地の「固有の花」があります。それを知るためには、私が若い頃滞在したヨーロッパはうってつけの場所でした。空の色も空気も山河などの自然の佇まいも建築様式も美術館の芸術もファッションも料理も、国境一つ超えればがらりと変わるのが私にとってヨーロッパの魅力の一つでした。ファッションの色彩一つとってもパリとミラノでは違う赤、違う青であり、それぞれの国の風土や文化とどこかで繋がっているようでした。私がフランスから帰国して数年後にファッションの仕事に携わるようになったのも、芸術と生活が深く関わっていることに気づいて、そこに文化というものの奥深さを感じたからでした。</p>
<p>　世界中のどの海よりも多様な種を育む豊潤な海に囲まれた緑豊かなこの列島で日本人はあらゆるものに神の存在を感じ、自然と調和し、四季の移ろいへの感性を磨きながら歴史を刻んできました。その列島に育まれた類い希な美の世界と人々の凛とした佇まいを多くの日本人が、とりわけ若い人たちが共有してくれればと思います。<br />
　それはまた海外の人々とのコミュニケーション能力も育むことになることでしょう。</p>
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		<title>消費税についてーフランスとオランダの場合</title>
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		<pubDate>Wed, 07 Jul 2010 04:17:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・文化・政治のコーナー]]></category>

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		<description><![CDATA[　鳩山政権の発足から瓦解に至るまでの８ヶ月間、日本の政治の著しい劣化と共に日々感じていたのは日本社会の無気力化でした。有史以来一度も外国からの支配を受けることのなかったこの国は、敗戦から６５年経っていよいよ本格的に宗主国 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　鳩山政権の発足から瓦解に至るまでの８ヶ月間、日本の政治の著しい劣化と共に日々感じていたのは日本社会の無気力化でした。有史以来一度も外国からの支配を受けることのなかったこの国は、敗戦から６５年経っていよいよ本格的に宗主国におもねる植民地根性の染みついた卑しげな国になってしまった、という思いを噛みしめる毎日でした。<br />
　独立国としての自立・自尊の精神を失ってまで安全保障をアメリカに丸投げしてきたことの歪みを私はこの国の様々な面で感じてしまうのですが、とりわけ自主外交の放棄によって生じた停滞は今、この世界史の大転換期にあって日本の戦後体制からの脱却を阻んでいるように見えます。</p>
<p>　言うまでもなく、安全保障とは、軍事だけでなく、外交力、情報力（諜報も含む）、そしてなによりも国民から信頼される政治のリーダーシップに基づいたしたたかで柔軟な政治力が求められる分野ですが、戦後政治家や官僚、大部分のマスコミがアメリカの顔色ばかり窺っていたこの国では、それらは劣化の一途を辿って今や全くの機能不全に陥っており、戦後の日米安保体制の負の側面を見る思いです。<br />
　さてこの文章は、対ロシア外交を中心に、日本のこれからの外交の在り方について考えてみたいと思って書き始めたのですが、管総理が消費税率１０％を打ち出したことによって７月１１日の参院選の争点の一つとなった消費税についての議論が本質から大きくそれているように見えるのが気になるので、今回はそこに絞って書いてみます。</p>
<p>　参院選を前にして野党は「増税は庶民の生活を直撃する」「人々の生活を破壊する増税は許さない」とあえて扇情的に人々の怒りを煽っていますが、私の知る限り、消費税の先進国ヨーロッパでは生活必需品に関しては税率を低く抑えるのが原則であり、景気の面からはともかく、庶民の生活に直接影響が及ぶようなことはあまりないと思います。<br />
　私は１９６８年－６９年と１９７６年－８１年と二度フランスでの生活を体験しています。その頃既に消費税率は１９％以上、物によっては２０％を超えていたと思いますが、ＴＶＡ（la taxe a valeur ajoutee）付加価値税を意識するのはたまにサン・トノレなどの高級ショッピング街でブランド品を買う時くらいで、近所の市場や八百屋やスーパーで買い物をしている限りＴＶＡの高い税率を気にすることはありませんでした。<br />
　１９５４年にフランスで初めて導入されたという付加価値税は各国で福祉や年金に充てられることが多く、国民全体が負担を強いられる分導入に慎重を期するのは分かりますが、今後消費税率を引き上げるのであれば、庶民の生活を破壊しないようなしっかりとした制度設計を行うことが大事なのだと思います。<br />
　割引税率の適用は各国によって微妙に異なり、それぞれの国柄や価値観を反映するものになっています、例えばフランスでは国内の消費税率は１９.６％ですが下記の物には割引税率５.５％、一部は２.１％が適用されています。</p>
<p>＜５.５％＞</p>
<p>飲料水・飲料（アルコール飲料を除く）<br />
食品（砂糖菓子、チョコレート、マーガリン、植物性油脂、キャビアを除く）<br />
暖房用の木材<br />
家畜用の飼料、農業用の肥料・ミネラル類<br />
書籍<br />
医薬品・医療器具・機器<br />
公的住宅のための敷地、建設工事、補修工事<br />
老人ホーム内のサービス・介護サービス<br />
上下水道サービス、ゴミ回収サービス<br />
電気、ガスの利用料<br />
劇場、コンサート会場、サーカス、映画館、移動遊園地、動物園、美術館、史跡などの入場料（ただし、成人指定作品を扱う場合を除く）<br />
公共交通機関、衛星放送・ケーブルテレビなどの受信料<br />
弁護士・代訴人の費用</p>
<p>＜２.１％＞</p>
<p>演劇・音楽・舞踏・サーカスなどの初演（成人指定作品を除く）<br />
家畜の販売<br />
司法サービス<br />
医療行為、一部の医薬品<br />
日刊紙<br />
  （メールマガジン　フランスの片隅から　を参考にさせていただきました。）</p>
<p>　巨大な財政赤字を抱え、人々が年金への不信感や老後への不安を募らせて未加入者が増えている現状で年金崩壊を防ぐためにも、消費税を上げるのが間違った方向とは思えませんが、ただ総理たるもの、そのことを党のマニフェストに掲げるのであれば、自身がその政策への揺るぎない信念を持ち叉制度設計のための基本的な方向性を確立しておいていただきたいものです。野党からの攻撃や支持率の低下にうろたえて、「今すぐに上げるとは言ってない」とすぐに腰が引け、「食料品への戻し減税を行う」という愚の骨頂のばらまきを口にするのは情けない。何故日本の政治家や官僚たちは、確固とした考え方に基づいた堅牢な政策を構築できないのでしょうか。</p>
<p>　何を割り引き税率の対象にするかは先にも書いたように各国のそれぞれの考え方を反映していますが、下記に掲げるのはオランダ在住の友人が調べてくれたオランダの割引き税率のリストです。</p>
<p>　オランダの消費税率は１９％。　但し下記の物は６％</p>
<p>１．飲食品一般（アルコールを除く）<br />
２．農作物<br />
３．医薬品<br />
４．視覚障害者関係の品物<br />
５．交通機関<br />
６．本・雑誌<br />
７．キャンプ場・バカンスハウス<br />
８．芸術家による上演・演奏<br />
９．Museum／コンサート／スポーツの試合の入場<br />
１０．床屋・美容院<br />
１１．服・くつ・自転車の修理<br />
１２．15年以上の家のペンキ塗り、漆喰塗り</p>
<p>　両国とも食料、飲料、医薬品、交通機関、書籍などと共に、広く芸術や文化に関する活動やチケット代が割引税率の対象になっているのは、文化を大切にするヨーロッパ共通の精神を感じます。私も学生時代頻繁にコンサートや美術館などに通いましたが、学生用のチケットは驚くほど安く、また各ミュージアムは日曜日は無料で、超一流の芸術を実に安価に享受することができました。<br />
　オランダの、キャンプ場・バカンスハウスや１５年以上の家のペンキ塗り、漆喰塗りは、バカンスを過ごすのに別荘も無く、ホテルにも滞在できない人々、あるいは家のペンキ塗りなどを他に頼む余裕などない人々への配慮が感じられます。<br />
　戻し減税というお金のかかるやり方で、しかも対象となる人の年収額でふらつくより、日本は日本らしい制度設計をしていただきたいと思います。<br />
　例えば子育て支援をしたいのであれば、粉ミルクや紙おむつや保育所の費用を。<br />
　高齢者に手厚くしたいのであれば、フランスのように老人ホーム内のサービス・介護サービス等を。<br />
　なるべく多くの人々に日本の文化芸術に触れてもらいたい、と思うなら、歌舞伎や文楽や能のチケット代を。<br />
　その他色々な観点から、今の５％に抑えるか、あるいは税率を引き下げる品目をリストアップしていただきたいと思います。<br />
　一方で、余裕のある人々には贅沢品を買う折り、少し高めの消費税を負担していただく。そういう意味での納税者の社会に対する責任感も大事だと思いますが、その為には政治や行政への信頼感が不可欠で、そういう意味ではまだ日本にはヨーロッパ並みの高い消費税率を導入する準備はできていないのかもしれません。</p>
<p>　国のトップが一年も持たずに次々と交代してゆくなど、およそ世界の先進国といわれている国にはないことで、それも日本人が自国の真の統治者たり得ていない証のようにも見えるのですが、このようなことを繰り返せば激しく変貌する新世界秩序の中で沈んで行くしかありません。管内閣にどこまで期待できるのか、実は私もぐらついているのですが、学生時代は学生運動に明け暮れ、市川房枝という、平塚雷鳥と共に日本の婦人解放運動を引っ張った筋金入りの市民運動家と行動を共にし、自らも市民運動によって支えられてきた、と自負する管総理は確かにこれまでの総理とは異質であり、ぶれずに信念に基づいた政治を行ってほしいと願うしかありません。<br />
　管総理はその所信表明演説の中で、現実主義の立場から１９６０－８０年代論壇で中心的役割を果たした国際政治学者で東工大名誉教授の永井陽之助氏のことに触れていました。色々調べていたら、私がよくチェックする中田安彦氏の「ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報」の２００９年３月１９日のページで、東工大での永井氏の数人の教え子たちを中心に様々な角度から永井陽之助を語るページを紹介していました。<br />
　「美しい理想」と「醜い平和」ならば、「醜い平和」を取るべきだ、と説く「平和の代償」という名著を遺した永井氏は、その「政治的リアリズム」の観点から軽武装・経済重視の吉田ドクトリンを高く評価し、「日米安保」を冷戦下の日本の現実的な選択、と考えたようです。<br />
　私は前回の「覇権国アメリカの謀略とダブルスタンダード」で<br />
「評論家や学者たちはこのような事実を直視し、日本とアメリカは価値観を共有している、といった美辞麗句は慎み、『アメリカの戦争は残虐非道で、テロとの戦いで犠牲になる人々の人権は確かに無視されている。しかしそれでも国を守るために日米安保は堅持すべきである』と言って頂きたい」と書きましたが、そういう意味では永井陽之助氏の「日米安保という苦い選択」は日米安保を歯の浮くような美辞麗句で飾り立てる御用学者たちよりは信用できるように思います。<br />
　永井氏を様々な角度から語るこのページに次のような書き込みがありました。<br />
　<br />
　「最近、とんとご無沙汰の永井陽之助先生。90年代になって以来、マスコミへの露出度ほとんどゼロ。<br />
先日、国連大使の北岡伸一先生と会食した際、「永井先生は最近どうしておられるんですか」と聞いたら<br />
「90年代半ばに急速に『反米』に傾斜して以来、誰からも相手にされなくなった」との お話。しばし絶句」</p>
<p>　２００５年あたりから「日本の蘇生」を書くために色々と調べ初めて、冷戦終結後のアメリカの「日本潰し」が如何に長期的な戦略に基づいた巧妙なものであったかに気づき、そのため本の内容も大幅に変更せざるを得なかったのですが、永井陽之助が９０年代半ばから何故反米に傾斜していったのか。そのいきさつを語ることなく２００８年１２月に世を去ったのは残念です。<br />
　管総理が日米安保重視を唱えつつ、アメリカへの警戒心を解かず、一方で１０年後、２０年後の新たな世界秩序に於ける日本の飛躍を準備する。せめてその目線だけは持っていて頂きたいと念じます。</p>
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		<title>覇権国アメリカの謀略とダブルスタンダード</title>
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		<pubDate>Thu, 03 Jun 2010 05:04:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・文化・政治のコーナー]]></category>

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		<description><![CDATA[　５月２８日、普天間基地移設問題で、移設先を米軍キャンプ・シュワブがある「沖縄県名護市辺野古」とすることを明記した日米の共同文書が発表されました。
　普天間基地の移設先について、「できたら国外、最低でも県外」という鳩山首 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　５月２８日、普天間基地移設問題で、移設先を米軍キャンプ・シュワブがある「沖縄県名護市辺野古」とすることを明記した日米の共同文書が発表されました。<br />
　普天間基地の移設先について、「できたら国外、最低でも県外」という鳩山首相の掲げた公約に、僅かながら未来への希望を感じていた沖縄の方たちの失望感と怒りは想像に余りあるものがあります。<br />
　そして「戦後日本の安全と平和は日米安保によって守られてきた。アメリカに見放されたら大変なことになる」と考える人にとっても、「日本は独自に強い軍事力を持つべきで、核兵器も排除すべきではない」と考える人にとっても、あるいは、「日本は憲法を改正して、アメリカと共に戦えるようにすべきだ」と考える人にとっても、そして少数派ながら「日本は、ＥＵが世界に先駆けて確立し、中東、アフリカ、中南米でも構想されつつある、多国間の安全保障の枠組みの構築に努め、国連の機能を改革・強化して、大国が戦争を起こしにくくする世界の協調体制を作るように努力すべき」と考える私のような者にとっても、考え方の違いを超えて「呆れてものが言えない」結末であったと思います。<br />
  鳩山政権のこの迷走劇で唯一よいことがあったとすれば、日本の安全保障の在り方や沖縄の置かれている現状等について人々が少しは考えるきっかけとなったことではないでしょうか。</p>
<p>　昨年、組閣直前に発表された「私の政治哲学」の中で、<br />
　「日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづける」<br />
としながらも、「アメリカ一極時代の終焉」を予感し、「ドル基軸通貨体制の永続性への懸念」を表明する一方で、東アジア共同体については、<br />
「地域的な通貨統合、『アジア共通通貨』の実現を目標としておくべきであり、その背景となる東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力を惜しんではならない」としていた鳩山総理。<br />
　そして、民主党のマニフェストには、</p>
<p>「日本外交の基盤として緊密で対等な日米同盟関係をつくるため、主体的な外交戦略を構築した上で、米国と役割を分担しながら日本の責任を積極的に果たす」とし、<br />
「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」<br />
と書かれていました。　</p>
<p>「日米安保」という対等ではあり得ない、そして冷戦後は中国という、本来は共に手を携えて東アジア共同体の構築に向けて力を合わせ、また互いに経済成長の力強いパートナーであるべき国を仮想敵国とした二国間の軍事同盟に縛られ、世界に他に例のない、治外法権の米軍基地をこれだけ抱えている日本はアメリカの属国であり、この状態に甘んじている限り日本に輝かしい未来はない」と考え続けてきた私にとって、それは未来志向の日本の方向性を示しており、鳩山政権に期待する気持ちになっていました。<br />
　ところが鳩山総理に精彩が感じられたのは政権発足後ほんの数週間。誰かに脅されてでもいるのか。もの凄い圧力をかけられているのか。ひたすらアメリカに平身低頭し、態度は卑屈で目はうつろ。<br />
　核安全保障サミットでは正式の首脳会談は行われず、夕食会でオバマ大統領にすり寄る姿が全米に放映され、ワシントンポスト紙から「loopy　愚か者」と嘲笑される情けなさで、日本国民としてやりきれぬ日々でした。</p>
<p>　対等な日米同盟関係など１００年早い、とアメリカにすごまれ、追いつめられ、もろくも自分の信念と言葉を裏切った鳩山総理の姿を見れば、私の願う「どこの国にも従属しない尊厳ある国のかたち」を希求する政治家はもう当分現れそうにもありません。後はただ世界の大きな歴史の流れの中でいくら目を塞いでいても分かるほどに国際情勢が変化し、「すり込み」が解けて日本人がもう少し国柄を大切にするようになれば、自ずから日本にも変化の兆しが現れて来るであろうことをじっと我慢しながら待つしかなさそうです。</p>
<p>　ところでビル・トッテン氏をご存知でしょうか。アメリカカリフォルニアで生まれ、カリフォルニア州立大学を出、１９６３年にアポロ計画で有名な ロックウェル社に入社。その後アメリカ大手ソフトウェア会社に移り、１９６９年に初来日して日本に魅せられ、１９７２年に日本でパッケージ・ソフトウェア販売会社「アシスト」を設立。現在社員８００人余りの会社に育て上げる傍ら、市場原理主義に冒されて変質してゆくアメリカ社会を嘆き、そのアメリカに支配される日本を憂うる１０冊ほどの著作を発表し、またour world というコラムを書き続けていますが、その論旨は明晰で、人生哲学や経営理念はまっとうそのもの。私にとって「古き良きアメリカ人」の一典型といえる人です。<br />
　２０１０年４月１９日の「日本に訪れた素晴らしい好機」というタイトルのコラムでも冒頭</p>
<p>「日本の政治家がアメリカの言いなりになる姿を目にするにつけ、アメリカ国籍を棄て、日本国籍を取得した者としてやりきれない気持ちになる。敗戦による占領が終わり50年以上経つのに、いまだに宗主国の指示のもとでしか動けない日本のリーダーたちの姿は、同じようにイギリスから支配をうけたインドのようだ」。と書き、<br />
「日本のサムライ階級が茶の湯に親しみ、花を活け、隠遁的芸事に勤しんでいるとき、ヨーロッパ人は貿易、征服、戦争、植民地化といった本当の意味の帝国の建設を目指して東西南北に広がっていたのである。<br />
　そんな日本を変えたのは、戦後、その精神の根底にあった 古神道、仏教、儒教、武士道 などを一掃させる教育制度だったことはいうまでもないだろう。アメリカは、インドと同じく外見は日本人だが中身をアメリカ人に作り変えることにみごとに成功した。<br />
　そう考えると、宗主国アメリカの没落は日本に訪れた素晴らしいチャンスのときである。失われた10年、20年を嘆くのではなく、それ以前の（もちろん明治時代の国家神道以前の）、日本の素晴らしい伝統文化、価値観を取り戻すのにこれほどふさわしい時はない」。<br />
と締めくくっています。将に　我が意を得たり　の内容で、私にとってはとりわけ（もちろん明治時代の国家神道以前の）という一文にトッテン氏の日本を見る目の確かさを感じます。そのトッテン氏が今年２月２２日に「日米安全保障条約」というタイトルで書いています。<br />
「沖縄の人だけでなく、私たち日本国民全員が「自分のこととして」この問題を考えた時、根本的な問題は基地移転ではなく、1951年、敗戦国である日本がアメリカと結び、1960年に改定された日米安全保障条約にあると思う」と述べ、<br />
 「 鳩山政権が公約の「対等な日米関係」を実践しようとしているなら、ぜひ安保条約を読んで欲しい」。と訴えています。<br />
　さて不勉強ながら初めて読む日米安保条約の第一条。</p>
<p>「締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する」</p>
<p>　ここに響き渡る理想主義は国連憲章や日本の憲法第九条の精神と全く同質のもので、おそらくこのような理念に基づいた戦後世界の新秩序を夢見たアメリカ人たちは政権内部にも確かにいたのだと思います。もし日米安全保障条約が微かにでもこのような精神を反映したものであるなら、私とてこれほどこの軍事同盟に危機感は持たないと思います。しかし現実はおよそ、この第一条の理想主義とはかけ離れています。トッテン氏も、</p>
<p>「いつアメリカが国際紛争を平和的に解決しようとしたのか。ベトナムやイラク戦争をみるといい。またグレナダ、ニカラグア、ユーゴスラビア、そしてアフガニスタンでアメリカは何をしたのか。アメリカがこの条約の通りに振る舞い、武力による威嚇や行使を1960年からしていなければ、今頃世界はずっと平和で安全な場所になっていただろう」。<br />
と書いています。</p>
<p>　普天間移設問題などを考える時、日本の大手マスコミがアメリカが戦後行ってきた戦争や謀略の実態などに触れることはまずありません。<br />
 <br />
　４月２９日にＮＨＫ第一で午前中「双方向解説　そこが知りたい　普天間そして日米同盟の行方は」という番組をやっていましたが、出演していた学者や評論家たちは中国や北朝鮮の脅威を強調し、危機感を煽る一方で、アメリカを「日本と自由や民主主義や人権などの価値観を共有する国」「アメリカの目指しているのは世界の平和と安定」とし、素直にこの番組を見れば大多数の人が「軍拡に走る中国への抑止力としてアメリカ軍の日本駐留はやむを得ない。日米同盟は堅持すべきだ」と思わせるような流れになっていました。<br />
　日本の安全保障については憲法９条のことも含めて論じ始めれば余りに長くなりそうなので、ここでは戦後イギリスから覇権を引き継いだアメリカの行ってきた数々の戦争や軍事行動は果たして「世界の平和と安定のため」だったのか。アメリカが常に大義名分として掲げる自由や民主主義や人権はダブルスタンダードではないのか、という点を考えてみたいと思います。</p>
<p>「多極化とはなんなのか」というタイトルのブログの冒頭で私は１９７３年、アメリカＣＩＡが画策した軍事クーデターによって、民主的に選ばれ国民の圧倒的な支持を得ていたチリのアジェンダ政権が倒されたこと、そしてアメリカが権力の座に押し上げ軍事独裁政権を樹立したピノチェトが推し進めた経済政策が、いわゆる市場原理主義（ネオリベラリズム）経済の最も初期の例だったと言われている、ということを書きましたが、民主主義を標榜するアメリカが国民の支持を得て選挙によって選ばれた政権を倒したのはもちろんチリだけではありません。中南米で成立した多くの軍事独裁政権の裏にＣＩＡとアメリカ政府の関与があった、ということがよく指摘されますが、ここではアメリカとイラン、イラクの関係を簡単に書いておきます。そこに見事なまでの、ガンジーの所謂「Ｐｏｌｉｔｉｑｕｅｓ　ｗｉｔｈｏｕｔ　ｐｒｉｎｃｉｐａｌeｓ」というアメリカ政治の本質が見えてきます。<br />
　戦後のイランは親英的なパーレビー朝のレザー・シャーの下、立憲君主制を布いていましたが、１９５１年民族主義者のモサデクがイギリスが所有する石油会社の国有化を主張して議会によって首相に選ばれるとイギリスなどが厳しい経済制裁を行って圧力をかけますがモサデクは国有化を続行。その後の選挙で圧勝し、シャーは国外に亡命。しかしアメリカＣＩＡの画策によってシャーは亡命先から呼び戻されて復権し、モサデクは首相の座を追われて逮捕され、以降イランはアメリカに支えられたレザー・シャーの君主独裁のかたちとなってゆき、アメリカはイギリスと共にイランの莫大な石油利権を手中に収めます。<br />
　２００９年６月４日、中東訪問中だったオバマ大統領はエジプトのカイロで行った演説の中で、<br />
「冷戦中、民主的に選出されたイラン政権の転覆に米政府が関わっていた」と述べて、アメリカ大統領として初めてこの事実を認めました。<br />
　その後１９７９年のイスラム革命によって国王が失脚すると、同じ年にイラクの大統領となって権力を掌握したサダム・フセインに接近して、イラン・イラク戦争（１９８０年９月ー１９８８年８月）ではフセイン政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給やCIAによる情報提供を行いました。（wikiを参照）ある意味でフセインを怪物に仕立てたのはアメリカであったとも言える訳ですが、その後の湾岸戦争ではイラクがクエートに攻め込んだことを口実にイラクに侵攻。そしてイラク戦争に関してはブログ「９１１の真相とアメリカの戦争」で書いた通りです。<br />
　サダム・フセインのことを少しでも調べれば、彼が権力を掌握あるいは維持する為には暗殺、粛清も全く厭わない極めて独裁体質の強い人間であることはすぐに分かります。サダムに化学兵器を含む莫大な軍事援助を与えたアメリカが「イラク戦争を起こしたのはフセインの圧政から人々を解放してイラクを民主化するためだった」と言っても誰が信用するのでしょうか。</p>
<p>　アメリカが権力の座に据えた悪名高い人物の一人にパナマのノリエガ将軍がいます。</p>
<p>＜冷戦下において、アメリカの事実上の庇護のもとマヌエル・ノリエガ最高司令官（将軍）の軍事独裁下にあったパナマは、非民主的な政治体制が原因で中南米の中でも孤立していただけでなく、中南米における麻薬ルートの温床となっているとされていた。<br />
　なおノリエガは、冷戦下の1950年代からアメリカ中央情報局（CIA）のために働いていたことも明らかになっている。ノリエガはブッシュ大統領がCIA長官時代にその手先となり、キューバのフィデル・カストロ政権やニカラグアのサンディニスタ政権など、中南米やカリブ海の左派政権の攪乱に協力していた。＞</p>
<p>　これはノリエガに関するwiki の記述の一部ですが、「民主主義」を掲げながら、実はアメリカは他国の国民がアメリカが権力の座につけた独裁者の圧制下に置かれることに関してはなんの痛痒も感じていないようです。<br />
　「アメリカの目指すものは世界の平和と安定」と強調し、アメリカの正義を讃える評論家の先生たちはこれらの事を知った上であえて日米同盟堅持の為に目をつぶっておられるのでしょうか。中東や中南米では確かに過激なこともやったが日本に対しては誠実で信頼のおけるパートナーであった、とおっしゃりたいのでしょうか。</p>
<p>　これらのことは冷戦下で起こった古い話で、共産主義との闘いのためにはやむを得なかった、と言う人々もいるでしょう。しかし冷戦終了後のアメリカの戦争は兵器のハイテク化と相俟って益々大量の無辜の民を殺傷する残酷で非人道的なものになっています。<br />
　「９１１同時多発テロの真相とアメリカの戦争」で、２００３年のイラク開戦時から２００８年６月までのイラク人犠牲者の数は約６５万５０００人、という、アメリカのジョンズホプキンズ大学医学部のギルバート・バーンハム教授らのチームが現地で調査し、イギリスの有力医学雑誌「サンセット」に発表した数字を紹介しました。<br />
　アメリカを初めとする欧米諸国にとって「人権侵害」は彼等の価値観に反する許し難い事です。「チェチェンで、チベットで、ミャンマーで人権が侵害されている」と彼等が非難するとき、私も胸が痛みます。地球上に生きるすべての人の人権は尊重されるべきです。しかし最も著しい人権侵害は「戦争」に於いて起こるのです。アメリカにとって、イラクやアフガニスタンの人々は人権はおろか無差別に命を奪っても一向にかまわない存在なのでしょうか。</p>
<p>　イラク開戦時、小泉首相が支持したイラク戦争に抗議した唯一の外交官、天木直人氏がメールマガジン上で４月３０日付け毎日新聞の記事を紹介していました。</p>
<p> ＜オバマ米政権はアフガンやイラクで無人航空機をどんどん使って爆撃している。もはや人間を殺す事に何のためらいもなくなりつつある＞</p>
<p>＜米国本土の基地から衛星通信を使い。一万キロ以上離れた戦地で無人航空機を飛ばす。兵士は自宅で家族と朝を迎え、基地に出勤。モニター画面に映る「戦場」で戦い、再び家族の待つ家に帰る。<br />
　午前中３時間はアフガンで（爆撃機を）飛ばし、１時間休憩して午後の３時間はイラクで飛ばす。<br />
　そこには爆撃の犠牲になったおびただしい数の無辜の市民の悲鳴や悲しみ、怒りは一切聞えない。<br />
　米軍はこの無人航空機をプレデター（捕食動物）と呼び、その後継新型機をリーパー（死神）と呼ぶ。<br />
その無神経さに驚かされる。<br />
　米兵は死なないで相手をいくらでも殺せる。米軍司令官は無人機を「最も価値ある兵器」と呼び、米兵が死なないから米議会では空爆を議会で取り上げることはない。戦争と認識すらしないのだ＞。</p>
<p>　評論家や学者たちはこのような事実を直視し、日本とアメリカは価値観を共有している、といった美辞麗句は慎み、<br />
「アメリカの戦争は残虐非道で、テロとの戦い　で犠牲になる人々の人権は確かに無視されている。しかしそれでも国を守るために日米安保は堅持すべきである」と言って頂きたいと思います。<br />
　そして私共は今、アメリカに基地を提供し、米国債を大量に買って戦費を貢ぎ、アメリカの非道な戦争と大量殺戮に加担することと引き替えに、アメリカに日本の安全保障を委ねる以外に、この国の安全保障の在り方はないのか、ということを自分たちのこととして考えてみるべきではないでしょうか。<br />
　無論すぐに実現できるようなことではありませんが。</p>
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		<title>「脱イスラム入欧」からの脱却ートルコエルドアン首相の挑戦</title>
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		<pubDate>Thu, 27 May 2010 06:48:18 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[&#8195;「日本の蘇生」やこのホームページで何度も書いてきたように、私のような不精者が本を書いたり、ブログを書いたりするのは、世界に押し寄せる大変動期の波を日々感じながら日本の過去と現在を見つめ、未来への方向性を考えて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>&emsp;「日本の蘇生」やこのホームページで何度も書いてきたように、私のような不精者が本を書いたり、ブログを書いたりするのは、世界に押し寄せる大変動期の波を日々感じながら日本の過去と現在を見つめ、未来への方向性を考えてみたい、という欲求に基づいているのですが、日本のマスメディアは常に内向きで些末な議論に終始し、世界史の変化の胎動を感じることは殆どできません。<br />
&emsp;メディアが日々出口の見えない普天間基地移設問題に明け暮れるなか、先日ＮＨＫ衛星第１の国際ニュースを見ていたら、カタールのアルジャジーラが「イランがトルコとブラジルの仲介で低濃縮ウランの国外搬出に同意した」と報じました。これは大ニュースではないか、とインターネットで詳しい報道を捜しましたが、日本の主要メディアがこのことを報じた形跡はなく、ようやくＡＳＡＨＩ.ＣＯＭで詳細を知ることができました。それによれば<br />
「イランの核開発問題をめぐって国際社会が追加制裁に向けた論議を進める中、同国は５月１７日、保有する低濃縮ウラン（濃縮度３．５％）を国外搬出することで仲介に当たってきたトルコ、ブラジルと合意した。これまで国外搬出を拒んできたが、相手国を隣国トルコとすることで、譲歩に転じた。」<br />
&emsp;主な合意内容は、<br />
（１）イランは保有する１．２トンの低濃縮ウランをまずトルコに搬出し、ＩＡＥＡの管理下に置く<br />
（２）フランス、ロシア、米国などが合意した場合、２０％に濃縮・加工された核燃料棒１２０キロを受け取る。<br />
&emsp;等で<br />
「イランは近く、国際原子力機関（ＩＡＥＡ）に合意内容を正式に通知する。」<br />
とのこと。<br />
&emsp;これまで「核開発はあくまでも平和利用のため」と主張してきたイランに対して「国際社会」はイランがウラン濃縮を行って核兵器の開発を行うのではないか、と疑いの目を向け、厳しい経済制裁を課し、アメリカやイスラエルではここ数年、「イランが核兵器を持つ前に先制攻撃を行うべき。核兵器の使用の可能性も排除すべきではない」という強硬論が横行して一発触発の危機感が漂っていました。おそらく「大量破壊兵器を持っている」と濡れ衣を着せられて戦争を仕掛けられ、国を破壊されたイラクの苦い教訓を踏まえ、イスラエルやアメリカにイラン攻撃への口実を与えないための、トルコとブラジルの外交的な配慮であろうと思います。<br />
&emsp;今年３月ドーハで行われたワシントン条約締約国会議で、大西洋・地中海産のクロマグロの国際商業取引を原則禁止するモナコ提案が大差で否決された時にも感じたことですが、国際社会の様々な局面で欧米の思惑通りにはいかなくなった世界の地殻変動が垣間見えてきます。<br />
&emsp;イスラエルやアメリカによるイランへの攻撃を回避させるために連携して動いたのがトルコのエルドアン首相とブラジルのルラ大統領であったことは私にとっては大きな意味があります。この二つの国の置かれた歴史的な条件や新たな時代への変革が、世界の多極化や価値観の変化を象徴しているように思えるからです。そしてこの二国とも、国際的に非常に存在感のある指導者が国民の高い支持率を背景に内政や外交でリーダーシップを発揮しています。<br />
「多極化とはなんなのか」で私はこの二国を多極化時代の主要プレーヤーの一角としてかなり詳しく書いているのでここでは繰り返しを避けたいと思うのですが、ただトルコに関してはこれからの日本を考えるにあたって色々な示唆を与えてくれるように思うので、再び簡単に触れておきます。</p>
<p>&emsp;つい最近までトルコといえば、ＥＵの一員となることを熱望しながらなかなか受け入れてもらえず苛立っている国、という印象でした。かつて長い間オスマントルコ帝国としてヨーロッパの国々と対峙し、国民の９割がイスラム教徒であるトルコをＥＵに迎え入れるのは、それがＥＵの強化に繋がると分かっていてもＥＵ内で根強い抵抗があります。でもトルコにしてみれば、近代トルコの父ケマル・アタチュルク以来日本の明治維新をお手本に脱イスラム・入欧の道を歩み、政教分離、世俗主義の政治を行ってきたのですから、欧州の一員として認めて欲しいという国民の期待も強かったのだと思います。ＮＡＴＯに加盟し、政治的にはアメリカ、イスラエル寄りだといわれてきました。<br />
&emsp;そのトルコに変化の兆しが見え始めたのは、穏健なイスラム主義を掲げる公正発展党の創設者で党首であるエルドアンが２００３年、イラク戦争開戦の年に首相に就任して公正発展党の単独政権が発足した頃からだったように思います。<br />
&emsp;エルドアンを見ているとそのリーダーシップは強力で、親欧米世俗主義の都会の知識層や軍部の批判を受けつつも少しずつ伝統的なイスラム世界への回帰を図り、国民にかつての誇りを取り戻させる傍ら、資源獲得や経済発展の為の政策も怠りなく、外国訪問の際にはいつも多くの閣僚と経済人を同行させています。<br />
&emsp;経済危機で元首級がだれも訪問しなくなっていた、長年軍事的に対立してきたギリシャにも多くの経済人を伴って５月１４日に訪問してギリシャとの経済交流の活発化を図りました。<br />
&emsp;エルドアン首相を見ているとその外交はしたたかで柔軟で、トルコが将来的にどのような国家を目指すべきなのか、というしっかりとした目線が感じられます。それは一国の指導者として当然のことですが、益々アメリカ従属一辺倒に傾いてアメリカの顔色ばかりを窺い、自主外交を放棄している日本の現状を考える時、何故日本にはこのような指導者が現れないのか、と思わざるを得ません。</p>
<p>&emsp;昨年１月、イスラエルのパレスティナ攻撃の直後に行われた世界経済フォーラム（ダボス会議）では、長々と自国のやったことを擁護するイスラエルのペレス大統領の後に発言して、イスラエルが行った残虐行為を非難し、途中で司会者によって発言が打ち切られると怒りを爆発させて退席し、この行動が全イスラム世界に深い共感を呼び起こしました。<br />
&emsp;２０世紀初頭、オスマントルコ帝国が解体された後、その広大な地域の殆どはイギリス、フランスなどの支配下もしくは影響下に置かれ、戦後はアメリカの影響下、多くの親米政権が誕生して、アメリカは石油利権を独占してきました。イラク戦争やイスラエルのパレスティナに対する非道ぶりが人々の怒りに火を付け、かつてオスマン帝国領だった地域のイスラム教徒たちの間にトルコへの回帰現象が起こっているようにも感じられます。<br />
&emsp;欧米の覇権が終焉に向かう中、欧米各国とも協調しながらトルコの歴史的軌道修正を行う役割を担って、現れるべくして現れてきた指導者のように思われます。</p>
<p>&emsp;昨年の戦後初の政権交代で、日本にも国民が誇りを取り戻せるような変化が起こるかもしれない、と期待した私は本当に甘かったと思うのですが、日本では「脱亜入欧米」からの脱却や自立した独自外交、国際的な発言力の増大などはまだ当分望めそうにありません。</p>
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