
「日本の蘇生」では日本とそれに関連する世界の、過去・現代・近未来の歴史の流れと、2030年に於ける「国のかたち」を書いてみましたが、ここでは、2030年の日本 では国のどこがどのような理念の下に変革され、その結果どのような変化が生じたか、という骨格の部分を 政治、連合国家制、天皇の京都へのご帰還、外交・安全保障、教育 に分けて抜き出してみようと思います。
私が「日本の蘇生」で掲げた未来に向かっての「この国のかたち」は一つの試みであり、極めて個人的な「希望」に過ぎません。この世界史の大変動期に際して、日本が自らの価値観に基づいて選択する「国のかたち」とはどのようなものであるべきなのか、一緒に考えて頂ければ幸いです。
日本の現状への強い危機感を持ってホームページを訪れてくださった方々のご意見・ご批判、そして異論・反論を期待しております。
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私が次代を担うリーダーとして想定した大久保利夫は、明治時代の最初の10年間を導いて、日本を近代国家へと脱皮させた大久保利通と同じ鹿児島県の出身です。鹿児島といえば中央から遠く離れた南の果ての最貧県、というイメージが強いと思いますが、鎌倉時代に源頼朝によって関東から南九州に送り込まれた名門島津氏によってよく統治され、幕末に至るまで鎌倉武士の気風を最もよく残すといわれ、徳川幕府も一目置く大藩でした。明治維新は薩摩藩の財力と軍事力によって成し遂げられたといってもよく、叉幕末から日露戦争ころまで各界に多くの人材を輩出しました。
大久保は幼い頃から、日本の未来への強い危機感を持つ元軍医の祖父によって四書・五経や司馬遷の歴史や孫子の兵法などの中国古典と武術を厳しくたたき込まれ、将来は政治家となって日本の変革に携わってほしい、という夢を託されます。
大久保はまた茶道に傾倒し、日本の古典や世界の歴史や文明や文化を独学で学び、英語を習得して大学を卒業すると外交官となります。
1990年マレーシア赴任中、マハティールによって提唱された日本をリーダーとする『東アジア経済圏構想(EAEG)』への参加を、アメリカの圧力を受けて日本政府が見送ったことに失望して政界入りを決意。
1992年の文藝春秋6月号の細川護煕氏の「自由社会連合結党宣言」に共鳴して翌1993年の選挙に日本新党から出馬して落選。その後鹿児島での地道な活動を経て九六年の衆院選に、無所属で立候補して初当選を果たしてその後自民党に入党。郵政選挙の時反対票を投じた後に一時政界を引退。
その後は、「私利私欲や派閥のため、党のためではなく、ましてやアメリカのためではなく、本当に国家国民のために身を粉にして働ける人。そういう人が何十人かいれば、国は立ち直れる」と信じて全国を行脚。志を同じくする仲間たちと共に「日本の自立」を掲げる草の根の運動を展開し
2010年に尊厳ある日本を取り戻す事を目指す政策集団「民新党」を立ち上げます。そこに十数名の現職国会議員も参加しますが、
「このグループの中から多くの、戦後の日本にはあまり見られなかったタイプの政治家が育っていったが、彼らは大久保が好んで引用した西郷隆盛の言葉
『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、しまつに困るものなり。このしまつに困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり』
に共鳴し、それを政治家の在り方の基本であると考える点で、極めて日本的な価値観によって結ばれた集団と言えるだろう。」(同上)
大久保たちはインターネットを最大限に利用して全国に網の目の組織をつくり、また主として定年退職後の人々や主婦、若者たちがボランティアで活動して支持層を広げることに協力します。実は莫大な資金をかき集めなくても日本中の多くの人々に政策を訴え浸透させ、政治活動ができる時代になっていました。
そして2015年の選挙で政権を獲得して大久保は総理となり、6年間に渡って政権を担当し、未来へと繋がる数々の政策を実行してゆきます。
2012年にアメリカ大統領となったエンリケ・ウイルソンとは、ウイルソンの懐刀といわれた日系三世で「日米の架け橋になりたい」と願うジョン・寺崎の紹介によって既に親しい友人となっていました。大久保とウイルソンは共に手を携えて国際社会に向かって世界の新秩序に於ける平和の構築を訴え、日米安保条約という二国間の軍事同盟を発展的に解消して、多国間の枠組みの中に位置づけ、そして
「 世界史上初めて実戦で原爆を投下したアメリカと、唯一の被爆国日本が共に手を携えて核の廃絶を訴えたことは、他の核保有国の国民感情を動かし政府を後押しして、遂に二○三五年までに核を廃絶するという条約に各国が調印した」(同上)
一方で大久保は、長年に渡る留学生招致活動でアジアに幅広い人脈を持つ坂本隆昌の紹介によって政界を一旦引いた時から10年間に渡り、アジアの指導者たちと親交を深めてきました。中華文明圏の人々と中国古典や歴史を論じられるのは彼の強みでした。
「坂本の人脈は、中国・韓国だけでなく、マレーシア・シンガポール・インドネシア・タイ・ヴェトナムなど非常に多岐にわたり、政界、財界、学者、マスコミ関係者など幅が広く、しかもその人間関係は通り一遍のものではなく、同士・親友・師弟、つまり腹を割って本音で話ができる人たちばかりでしたからね。
私たちにとって、どうやったらお互いの国民が理解し合えるか、誤解を解けるか、あるいはわだかまりをなくせるか、さまざまな裏から表からの交渉を積み重ねていく上で計り知れない価値があったのです」(同上)
そして
「最も著しい変化がアジアで起こりつつある。今や人口でもGNPでも欧米を抜いているアジアで、アセアン諸国と中国、朝鮮連邦、日本が加盟する経済圏が構築され、エキュ(ACU)が貿易決済の共通通貨として使用されるようになっている。
ドルが世界の基軸通貨であった時代が終わり、ドル・ユーロ・エキュ・リヤド(アラブ共同体の共通通貨)がそれぞれ国際決済通貨として使用され、各国のリスクヘッジに貢献している。
また、このアジア経済圏は中国・朝鮮連邦・日本を中心にして、集団安全保障の枠組みともなっており、アジアの国同士が戦うという可能性はなくなっている。(同上)
また道州制導入の歴史的な意味を人々に訴えつつ、中央と地方のパイプ役となってそれぞれの役割分担を明確にし、天皇ご一家の京都へのご機関を国民に計り、京都御所の新宮殿の建設に着手。皇居跡には国の総力を挙げて「知の共有」のための様々な施設を建設する方針を打ち出します。
また教育でも、初等教育に於ける国語重視、情操重視、高等教育に於ける発想力重視、論理性重視の教育理念を掲げます。また教員制度を抜本的に見直し、ハードルを高くして待遇を大幅に改善し、意欲ある若者たちの教育現場への参入を呼びかけます。
そして2021年に政界を去って郷里の鹿児島に戻り、前年に導入された道州制の下、悲願の南九州再生に取り組みます。
「有り難いことに志と信念を持った政治家がどんどん出てきて、後を託すのに何の心配もいりませんでした。で、私自身の長年の夢であった九州再興へと心置きなく向かうことができました。我が儘を聞いてもらって皆に感謝しています」(同上)
大久保は2025年から南九州知事となり、2030年、州庁熊本にあって南九州の発展に取り組んでいます。
これを読んで「そんなの夢物語だ」と感じる方も多いと思います。
けれどもアメリカでは一足早く、アフリカ系アメリカ人のオバマ大統領が、国民の熱い期待を背負って大統領に当選しました。
「 もし、米国ではあらゆることが可能であるということを疑ったり、建国者の夢がまだ生きているのか疑問に思っていたり、米国の民主主義の力を疑ったりする人がいたら、こう言いたい。今夜が答えだと」
これはオバマ大統領のシカゴでの勝利演説の冒頭の部分ですが、ここには多民族国家アメリカの人々の心を一つにしうるアメリカ的な価値観が簡潔に語られています。
私どもにも多くの国民が共有できる普遍的な価値観があるはずですが、長い歴史の中で日本人が育くみ、受け継いできた価値観は現代の社会の中で完全に見失われているように思われます。
実は私が 日本の蘇生 を書こうと思った時、最初に考えたのはは大久保利夫ではなくてエンリケ・ウイルソンでした。
日本の蘇生 は、戦後イギリスから覇権を引き継いで、日本の長い歴史の中で初めて日本を占領・統治したアメリカという国家の存在を抜きに考えることはできません。そのアメリカの覇権が揺らぎ始めた、と感じたのがこの本を書く一つのきっかけでしたが、長い間多くの日本人が民主主義のお手本、と考えてきたアメリカは実はいつの間にか、彼等の建国の理念やリンカーンの理想とはかけ離れた余りにも不公正で不公平な国になっていました。軍産複合体が肥大化して戦争依存体質となり、製造業が廃れて実体経済とはかけ離れたマネーゲームが横行し、1%の特権階級が国富の50%を占有する一方で、多くの国民が医療保険にも加入できず、高額の医療費が払えず満足な治療が受けられなくて死んで行く大人や子供が溢れ、有給休暇も取れず、法による労働時間の制限もない。要するに、世界を席巻し世界中で格差を拡大したグローバリゼーションの一番の被害者は実はアメリカ国民だったのです。
現代のアメリカのこのような有様を見て私は「アメリカは一握りの人々に乗っ取られている」という印象を持たざるを得ませんでしたが、アメリカは元々このような国家だったわけではありません。少なくとも20世紀初頭に マックス・ウェーバーが見たアメリカは現在のアメリカとは全く違っていた筈です。
マックス・ウェーバーは1904年アメリカに旅行して、アメリカ社会に於いてプロテスタンティズムに基づく職業倫理が広く普及していることに強い感銘を受けました。そして帰国後彼は名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を出版します。当時ヨーロッパではマルクス主義が非常な勢いで労働者、知識階級、若者達の間に広がり、赤色革命は何時何処で起こってもおかしくない状態になっていました。それだけ、ひたすら利潤追求を目指す資本主義が社会を歪め、劣化させ、不安定にしていたわけで、ウェーバーはアメリカ社会を見て、こういった資本主義の持つ本質的な矛盾を克服するためには、プロテスタント、とりわけ厳格で禁欲的なカルヴァン派に於ける個々人のモラルや倫理観が非常に大事であると考えたようです。
それから100年が経った21世紀のアメリカの余りの墜落ぶりに、多くの心あるアメリカ人が怒り、心を痛め、アメリカをもっと真っ当な民主的な国家として蘇らせるために立ち上がるに違いない。そう考えて私は、市民運動から頭角を現し、ガンジーの政治哲学に学び、純粋さとしたたかさを併せ持ち、
「アメリカをアメリカ国民の手に取り戻そう」
「アメリカを真に平和的な国家に変身させよう」
と人々に訴えてアメリカ史上初のヒスパニック系大統領となった、第45代大統領エンリケ・ウイルソン という人物像を考えてみました。
ウイルソンは民主党にも共和党にも属さず、大統領選挙のとき各州の候補者リストに名前を載せる誓願手続きの運動から這い上がり、2012年に
「巨額の資金を集めて選挙活動を行う共和党や民主党の候補者たちを尻目に、ボランティアの人々とインターネット上のネットワークによって、少しずつ自らの政策を国民に浸透させていった。やがて、それがアメリカ社会を揺るがす大きなうねりとなって、ウィルソンは第四十五代大統領に当選した」(同上)
「ボクは共産主義者でも社会主義者でもないからね。才能のある者、努力する者がそれ相応の利益を得るのは当然だと思うし、競争がなかったら社会が活性化しない。でも政治家というのは、いわゆる職業ではないんだよ。国家から権力を委任され、それを行使するんだから、利益の追求は絶対に許されない。政治家が何かを決断するとき、そこにこれぽっちの私心もあってはいけない。大国であろうが小国であろうが、公の立場にある者が汚職をしたら、国はそこから腐っていくんだよ」(同上)
これはウイルソンが常々親しい友人たちに語っていた政治信条です。
そしてウィルソン大統領が執った政策は、
「核兵器の廃絶への呼びかけ」、「軍事予算の大幅削減」、「世界各地の米軍基地の縮小」、「日米安保の解消」、「FRBの解体」、「CIAへの規制」、「金融および証券市場、とりわけ、行き過ぎたマネーゲームへの規制」、「不公平税制の是正」、「格差是正のための数々の法改正」、「教育の機会均等化」、「不正献金の禁止」等々・・・。
さすが脳天気な私も、これらの政策を全て実現できる大統領が出てくるとは思っていません。命が幾つあっても足りないでしょう。
ただ私がその筆頭に挙げた、アメリカが率先して行う「核の廃絶」への道筋はオバマ大統領のプラハ演説によって実現の可能性が出てきました。
「 広島と長崎への原爆投下は歴史的誤りであった。私たちアメリカ人は、アメリカが最初に核爆弾による大量殺人を犯した国である、と自覚せねばならない。
そして、国を挙げて核の廃絶に取り組む義務を負っている。アメリカは今後いかなるかたちの核兵器の製造も使用もやめるべきであると考える」(同上)
これは日本の変革を担う大久保利夫が首相になって初めてアメリカを訪問した際の共同記者会見の折りにウイルソン大統領が語った言葉ですが、「原爆の投下は太平洋戦争を早期に終結させるために必要だった。もしあの時原爆を使用しなければ双方の犠牲者の数は原爆の犠牲者の数を遙かに超えていたはずだ」とするこれまでのアメリカの歴史観に反したこのような見解をアメリカ大統領が公言するのはまず無理だろう、と考えていた私にはオバマのプラハ演説の
「 米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある」という冒頭の部分は驚きでした。
私が夢見ていたように、日本の総理とアメリカの大統領が手を携えて核の廃絶を訴える、という筋書きにはならなかったどころか、政界もメディアもどこか冷ややかな反応であったのは極めて遺憾ですが。
オバマがアメリカ史上、そして世界史上どのような実績を残せるか、まだ不透明な要素は色々とありますが、少なくとも彼は「チェンジ」を願う多くのアメリカ国民が夢と希望を託して選んだ「我らの大統領」でした。そこに私は、オバマが言ったように民主主義の理想がまだアメリカで生きている、と信じるアメリカ国民の底力を感じました。
「 我々の選挙戦はワシントンの大会場ではなく、デモインの裏庭やコンコードの居間、チャールストンの玄関先で始まった。少ない貯金の中から5ドル、10ドル、20ドルを出してくれた、働く人々のおかげだ」
「 ボランティアとして集まって組織を作り、(リンカーン米大統領の言った『人民の人民による人民のための政治』は200年以上たっても滅びていないと証明した何百万人もの米国人から力を得た」 「これは、あなたたちの勝利だ」
オバマ大統領の勝利演説の中で私が最も共感した部分です。
それでは日本に、国民が未来への夢と希望を託して選びうるリーダーが出現する可能性はあるのでしょうか。
戦後唯一その可能性を感じさせたのは細川護煕氏でした。 足利義昭を担いで室町幕府の再興を目指し、後、信長、秀吉、家康に仕えて戦国時代から江戸時代初期までをしたたかに生き抜いた戦国武将で、同時に室町文化の精髄を一身に体現して歌道、茶道、武道の達人でもあった細川藤孝(幽斎)と、その息子で千利休の七哲の一人に数えられた細川忠興(三斎)を先祖に持ち、肥後熊本に54万石を領して幕末まで237年間を統治した細川家の第18代当主で熊本県知事を務めた細川護熙氏には、国民に「この人なら」と思わせる多くの要素がありました。日本の優れた文化を背景に外国の要人たちと堂々と渡り合えることが出来た筈の人でした。結果はご存知の通りで、寄り合い所帯の悲しさと、自民党の政権への妄執によって国民の夢はあっけなくしぼみ、以後日本政治は益々方向性を見失って混迷の度を深めてゆきました。
さて現実に戻って日本の政治の現状を見てみると、どのような国家、どのような社会を目指すのか、という明確なビジョンも方向性もないままに、その場しのぎの政策がなんの整合性もなく打ち出されるのに驚かされます。将に末期症状です。おまけに日本社会を破壊した小泉政権下の様々な制度が数年後には見直しを迫られ、人々の暮らしは益々疲弊してゆきます。
本来はすべての政策や制度は国家理念や目指すべき社会の実現の為に立案され法制化されるべきであり、また政治のリーダーシップの下、すべての省庁が目標を共有しながら互いに政策を摺り合わせ、協力してゆくべきだと思います。いわば「チームジャパン」の心意気が必要だと思います。
その為には政治家に高い見識や構想力や確固とした歴史観、世界情勢の潮目を見る分析力などが要求されると思いますが、政治家先生たちは次の選挙の為の活動に忙しくて、国会答弁さえ官僚の書いた原稿を棒読み。
そんな彼等が「脱官僚」「政治主導」と叫んでも国民には不安が募ります。明治維新の時も戦後も、日本に繁栄をもたらしたのは世界に冠たる日本の優秀な官僚たちではなかったのかと。
無論現在の官僚システムには欠陥も多く、また省庁の縦割り行政や、「省益あって国益なし」という役人たちの姿勢も大問題です。けれでも元々、政治家と官僚は役割が異なります。
全てを官僚のせいにするかのような官僚バッシングは間違いなく日本を弱体化させます。時代の大きな転換点にあって、様々な制度を再構築してゆかなければならないこれからの日本において「能吏」の存在は不可欠なのですから。
道州制が導入されれば、今まで政治家に求められていた地元への利益誘導の要素が少なくなる分、政治家の質が変わり、また官僚の仕事が減る分、官僚システムも変わってゆくかもしれません。
その辺りは次章で述べたいと思います。
私が「道州制」ではなく、「連合国家制」と書くのは、この「国のかたち」を大きく変えるこの制度の導入に於いて、単に税源が移譲され、地方の権限が拡大する、というだけでなく、地方の人々の意識の変革こそが大事だと考えるからなのですが、「日本の蘇生」で掲げた新たな 国のかたち の中で唯一、具体化に向かって動き出しているようです。
日本の蘇生 では仮に日本を15の州に分け、2020年から施行された、ということになっています。
1 北海道州
面積 83,456km² 人口 5,600,705人
2 東北州 (青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県)
面積 66,890km² 人口 9,601,110人
3 北陸州 (福井県、石川県、富山県)
面積 12,621km² 人口 3,098,405人
4 北関東州(群馬県、栃木県、茨城県)
面積 18,867km² 人口 7,008,714人
5 南関東州(神奈川県、埼玉県、千葉県)
面積 11,370km² 人口 21,841,317人
6 東京州
面積 2,167km² 人口 12,361,736人
7 甲信越州(山梨県、長野県、新潟県)
面積 30,610km² 人口 5,485,900人
8 東海州 (愛知県、岐阜県、三重県、静岡県)
面積 29,342km² 人口 14,878、484人
9 中国州 (岡山県、広島県、山口県、鳥取県、島根県)
面積 31,919km² 人口 7,653,794人
10 近畿州 (大阪府、兵庫県、和歌山県、滋賀県)
面積 19,035km² 人口 16,671,075人
11 西京州 (京都府、奈良県)
東の京-東京と西の京-西京が国家の二つの中心を象徴する。
面積 8、304km² 人口 3,987,590人
12 四国州 (香川県、愛媛県、徳島県、高知県)
面積 18,894km² 人口 4,106,946人
13 北九州 (福岡県、佐賀県、長崎県、大分県)
面積 17,850km² 人口 8,599,085人
14 南九州 (熊本県、宮崎県、鹿児島県)
面積 24、328km² 人口 4,771,092人
15 沖縄州
面積 2,275km² 人口 1,387,518人
大久保利夫は2021年に政界を去って鹿児島に戻りますが、ジュビエールにその理由を問われて次のように答えます。
「私は先に挙げたような理由から、道州制の導入を積極的に支持してきましたが、危惧の念がないわけではなかった。つまりこの制度の導入によって、果たして本当に地方が活性化し、なおかつ国家としての統一が保たれ、国力が維持され、国民が誇りを持てるような国家たり得るのか、という点ですね。
要するに、この制度の導入によって国家がバラバラになってしまっては、信長・秀吉・家康に申し訳が立たない。そういう意味で、大事なことは中央と州の役割分担がしっかりできていることであり、また、郷土愛と国家意識とを人々が同時に持ちうるような国にしていかねば、と考えました。だからいろいろな意味で中央と地方のパイプ役になりたかった。地方の人々の気持ちは地方にいなければわからないものです」(同上)
それでは施行から10年経った2030年の日本社会ではどのような変化が見られるのでしょうか。
「編集長のジャン・ポールが、新しい世界秩序のエトワールの一つは日本になるだろう、と予測してるんだよ。ヨーロッパでも日本の変革については随分語られているけど、どう、キミは日本にいて、何か変化を実感してる?」
「そうだね。まず政治の在り方が随分変わったと思うよ。なんと言っても日米安保条約を解消したのが大きい。日本はやっぱり戦後ずっとアメリカの植民地だったんだよ。アメリカの有形無形の圧力が政界や官界を縛っていて、未来志向で自由に発想し、政策を立案することを妨げていた。自民党の政治家たちには、アメリカに逆らったら政治生命が危ない、という恐怖感があったと思うよ。だから本当の意味での国益追求ができなかった。
それに道州制が導入されて、国税の徴収権が地方に移ったからね。政治家たちが地元に利益を誘導しなければ選挙に受からない、という状況ではなくなっている。日本は元々アメリカのようなロビイスト大国ではないしね。最近の日本の政治家たちを見ていると、少なくとも彼らの間では日本人の昔の価値観とか倫理観が戻ってきているような気がするね。国家のために働きたい、という志を持った連中が政界に飛び込んで行ってるよ」(同上)
これは2030年の日本を取材するためにかつての任地に25年ぶりにやって来たジャーナリストアラン・ジュビエールと日本に住んでいるアランの友人の評論家ジャン・ジャック・ド・クルティエとの会話です。道州制の導入によって私が政治面で期待するのははまずはこのような変化なのですが。尤も日米安保の解消という難題をクリアしなければやはり難しいのかもしれません。
一方官僚機構は、人数は三分の一くらいに減り、50で肩たたき、も天下りも廃止され、官僚たちは一つの部署に長く留まって腰を落ち着けて仕事をし、国のために働きたい、やり甲斐のある仕事をしたい、という意欲的な若者たちがまた官僚を目指すようになっている。
そして例えば、
「ODAのスタイルもバラマキ型から、長期的視野に立った援助へと随分変化したようでね。総理の外遊の日程が決まると、その時点で役人、学者、時には学生も交えてプロジェクトチームが立ち上げられ、その国の歴史や地理、産業、人口構成などを研究する。そして、その国の土地柄に合った援助を検討して前もって現地の人々と情報交換する。
チームは総理に同行し現地で最終的な詰めを行い、援助の内容が決まったら、今度はその実施に向けて再びプロジェクトを立ち上げる。メインテーマは貧困撲滅、教育、地球の環境保全だそうだ。砂漠の緑化なんかは三十年くらいの長期計画になるから役所の担当者がくるくる代わるのは困るらしい。今、日本の若者たちはこういったODAに随分ボランティアとして参加しているよ。大学の単位取得にもなるようだし、そういった若者に社会の評価も高いようだ。
紙切れ同然の米国債を一年に二十兆近くも買わされていたことを思えば、日本にとっては安いものだ」(ジャン・ジャックの言葉)
地方に起きている目に見える変化は・・・
「まず地方に人々が戻ってきているのは確かだろうな。旅行すると、新しい病院や学校を見かけるようになった。いくつかの地方の町では、随分ユニークな校舎が建てられているのを見たよ。この間四国に旅行したとき見かけた公立の小・中学校の校舎は、瓦葺きの土蔵づくりで白壁。それが意外と周りとマッチして違和感がない。昔は駅に降り立つと、どこもリトル東京という感じで辟易としたもんだけど、そういう意味でゆっくりとではあるけど、地方の町の景観は確実に変化している。というより伝統に根ざした景観に戻りつつある、といった方がよいのかな。モダンな建物でもどこかに『日本らしさ』の香りが感じられるものが多くなったような気がする」(同上)
そして2025年から大久保が知事を務める南九州では・・・
常に多くの学生を東大に送り込む鹿児島の中高一貫校の名門ラサールの学生の中に、南九州の大学を選び、地元で就職する若者が増えてきた。また東大、京大、阪大などに進学した学生たちの中に、就職は地元で、というケースも目立つようになってきている。そして
「 今わが州で、世界的水準と誇れる分野が二つほどありましてね。一つは石油の代替燃料の研究・開発で、海外からの投資も非常に多く、研究者たちもやって来るようになっています。水やゴミからつくる低価格で大気を汚染しないクリーンなエネルギーの開発は、天然資源に恵まれないわが国にとっても、世界にとっても大事なことです。
もう一つは、最新の医療設備と再生医療など高度な医療技術を備えた総合病院と湯治場を組み合わせた独自の医療施設の建設です。わが州は至る所に豊かな温泉が湧き出ていますからね。
最初試みに飛行場からも近い霧島に建設したのですが、国内はもとより、中国、朝鮮連邦、オーストラリアなど各国から患者が殺到して、その反響の大きさに驚かされました。ここで腎臓や肝臓や心臓などの再生医療を受け、温泉で心と身体を休める。食事も患者の症状に合わせ、素材を吟味し旬を意識した質の高いものを出す。
現在、霧島と指宿に十か所ほどあり、阿蘇の麓とか各地に建設中です。温泉を初めとする九州の自然の豊かさが海外でもよく知られるようになって、観光客も非常に増えてます。語学の習得に熱心な高校生たちがボランティアでガイドを務めたりしてますよ」
夢みたいな事ばかり言うんじゃない、とお叱りを受けそうですが、私は道州制の導入がうまく機能すれば、日本の各地域で、日本人の発想力や創意工夫に基づいた新たな動きが起こってくるのではないだろうか、と密かに期待しています。ただし、道州制が国と地方の財源の奪い合いになり、州議会で醜い予算のぶんどり合戦が行われ、不正や汚職が蔓延する可能性ももちろんあります。
州議会には国家機密はないので、収支をすべてネット上で公開することは可能なはずですが、やはりそうならない為には市民レベルの高い意識の共有が大事なのではないでしょうか。
政治や権力は必ず腐敗する、などと諦めないで、軍事大国としてではなく、国民の幸福度や世界への真の意味での貢献度によって、日本は世界に誇れる国になりうるのだ、と信じたいと思います。
私は、それぞれの州が一つの国を建設するくらいの意気込みこそが大事ではないかと考えています。
世界の国々を見ていると、所謂大国の国民が必ずしも幸せとは限りません。ましてや「覇権国家」などになるとその力を維持するために国民に多くの犠牲が強いられます。
私が今、非常に優れた国家経営を行っていて、国民の幸福度・満足度が高く、道州制導入後のモデルとなりうる、と感じられる国に、オランダ、デンマーク、フィンランドなどがありますが、その手厚い社会保障制度やヒューマニズムに基づいた一人一人の国民へのきめ細かな配慮などを見ていると、むしろ大国でないからこをこのようなことが実現可能なのだと思えます。
オランダは面積 41,900km² で丁度九州ほどの広さ、人口は1,560万人で、東京の昼の人口に相当します。ワークシェアリングを初めとする様々な優れた制度の構築によって「一歩先を行く成熟国家」として今色々な意味で注目が集まっています。国民一人当たりのGDPは世界で10位。
フィンランドは面積は338,000km² で日本(377,829km²)とほぼ同じ広さですが人口は520万人。国土の四分の一は北極圏に属し、厳しい気候風土ながら、世界学力コンクールで常にトップの成績を収めて教育水準の高さで世界中から注目され、国民一人当たりのGDPも11位と日本を遙かに上回っています。
デンマークは面積が43,098km² で九州とほぼ同じ。人口は538万人。手厚い社会保障制度はよく知られ、国民一人当たりのGDPも5位、と高位置です。
これら三つの国に共通して見られるのは、一人一人の市民の社会への責任感であり、「税金は喜んで払わせてもらう。私たちだっていつ国にお世話になるかもしれないんだから」という国家への信頼感です。
これら三つの国は政治が極めて安定していて汚職や腐敗がない、という点でも共通しており、これからホームページ上でも随時取り上げて行きたいと思っています。
これは はじめに でも書いたことですが、日本人というのはなにか目標を見いだしてその方向に国民が力を結集する時、もの凄いパワーを発揮します。
明治維新であっという間に西欧的な近代国家へと変身して、30年余りで世界屈指の海軍力を持つロシアに勝利して世界を唖然とさせた時、大和民族は神から選ばれて世界を支配する命運を担っている、と信じて瞬く間に満州国を建設し、戦線の拡大に突っ走って第二次世界大戦という未曾有の大戦争の主要プレイヤーの一国となってしまった時、戦後一変して占領軍とアメリカ的民主主義を嬉々として受け入れ、経済大国への道を駆け上がった時。
道州制という、江戸時代の幕藩体制とも異なる、いままで日本が経験したことのない新しい国のかたち に向けて、それぞれの州が、その州の歴史や伝統や文化を踏まえ、自然と共生しつつ地理的な条件を生かして「国造り」に邁進する時、日本人のエネルギーが再び沸き起こることを期待したいと思います。
日本が「昨日の夢」をまた追い求めて軍事大国化や核武装を目指せば世界は警戒し、日本は孤立して、また破滅への道を転げ落ちることになります。けれどもその卓越した力を世界の平和や飢餓に苦しむ人々や地球を守るために使えば、日本は世界に夢を与えることも出来るはずです。国民も日本人である、ということに本当の意味での誇りを感じることができるでしょう。
国民が望めば、決して不可能ではありません。
Yes We Can です。
私が 日本の蘇生 で描いた 国のかたち のなかで最も実現しそうもないのがこの 天皇の京都へのご帰還 であろうと思います。白州正子さん以外にそのようなことを述べている人を見かけたことがありません。が私は天皇ご一家は徳川家の居城であった現在の皇居ではなく、8世紀末以来一千年に渡ってお住まいになられた京都にご帰還になるのが自然なのではないだろうか、と以前から思い続けてきました。
「 二〇二五年、明治維新以来百五十七年ぶりに、天皇ご一家が京都にお移りなり、京都還都が実現した。といっても、明治政府は一度も「東京還都」を宣言したことはなかったから、単に「天皇ご一家は京都にお帰えりになった」と言うべきだろうか。
二〇一八年の国民投票で過半数の賛成を得て実現したものだが、日本はこれで政治行政の中心としての東京と、歴史・文化の中心としての京都と、二つの重心を持つことになった。政治の実権を持たないのは、これまでどおりであり、東京を離れた分、国家権力からはより乖離したとも言えるが、「国家統合の象徴として、日本の歴史・伝統・文化を体現する存在としての天皇」の存在と、その意味を多くの日本人が、これまでよりも明確に意識するようになった」。(日本の蘇生 より)
そして
「リニアモーターカーは東京からノンストップで京都駅へ滑り込んだ。駅を出ると、まず目に入るのが実に均整の取れた軽やかな佇まいの朱雀門である。平城京跡に復元されたものを、ここに移築したと聞いているが、後ろに続く京都御苑と御所の景観とよく調和して典雅な古都の風格が匂い立つようである。
将来はここから南に七十五メートルの大路を通して四キロ先の羅生門に繋げる計画のようだが、まだ区画整理が終わっておらず、その実現はだいぶ先のこととなりそうだ。しかし、何年かかっても千年の古都のかたちを今に蘇らせ、後世に伝えたいという強い意志が感じられる。
私は京都の迎賓館から新宮殿、旧京都御所へと繋がる築地塀の周りをゆっくりと歩いてみた。深い木立の中、所々入母屋屋根の美しくゆるやか傾斜が見え隠れする。新宮殿は江戸時代に焼失した仙洞御所の跡地に建てられているが、天皇のお住まいとして、あのお堀に囲まれた戦国大名の堅固な城より数寄屋造りの雅な宮殿の方がふさわしいように思われる。警護は厳重だが目立たぬような配慮がなされていて不快感はない。
築地塀が途切れると、そこからは美しい石組みの石垣で、その先が新宮殿の正門だった。僅かに勾配した道のかなたに屋根の反りが美しい、重厚にして典雅な山門風の門が臨まれた。道の両側は見事な松並木で、玉砂利が敷き詰められている。かなり大勢の人がいたにもかかわらず、辺りは静寂に包まれていた」。
(同上)
そして皇居跡は・・・。
戦後の自民党政治では、ここは賄賂を弾んだ業者に払い下げられ、一部は公園として残されるとしても大部分の土地にはホテルやオフィスビルやマンションなどの高層ビル群が建つことになるでしょう。経済効果○○兆円、などと称して。
大久保政権が後世の日本人へ遺すべく始めたプロジェクトは・・・
「 日本に起きた変革のうちでも最も特筆すべきことの一つは、天皇ご一家が一千年の間御所のあった京都にお帰りになったことであろう。明治維新以来お住まいであった皇居は現在一般に開放され、日本の国の総力を挙げて「歴史博物館」「東西文化交流会館」「縄文から現代に至る工芸館」などが建設の途上にある。また、能舞台、茶室、コンサートホール、劇場なども幾つか造られ、一大文化センターとなっている。ゆくゆくは小学校から高校まで、生徒たちを定期的に訪れさせて日本の美と精神に触れさせ、また、日本がユーラシアの辺境の地にありながら、幅広く海外の文化を受容し融合させていった歴史を肌で感じさせ、世界に対する広い視野を身に付けさせよう、というなかなか壮大な企画なのである」。(同上)
日本の心臓部にこのような「知の共有」のための殿堂を建設するのは、歴史や伝統を継承しつつ持続可能な発展を目指す新生日本の姿を内外に印象づける一つの象徴ともなるのではないかと思うのですが・・・。
天皇の東京行幸(東幸)を決断したのは大久保利通だったといわれていますが、天皇が京都から離れるのは日本の歴史上初めてのことでさすが剛胆な大久保にとっても勇気のいることだったと思います。しかし明治新政府というのはひたすら天皇と朝廷の歴史的な権威の下に成立した政権なのですからあの時点では他の選択肢はなかったと思います。
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス (明治憲法 第一条)
ここでは天皇は国家元首であり、陸海空軍の大元帥であるわけですから、天皇の御座所がすなわち首都である、ということになります。
けれでも戦後の日本国憲法いわゆる平和憲法では、
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。(第一章 第一条)
実は平安朝以降天皇が政治の実権を持たないというのはごく普通のありかたでした。そして鎌倉幕府と徳川幕府と、二つの武家政権で、政治権力は関東に、朝廷は京都に存在し続けました。
日本の支配構造の大きな特徴は、王家である天皇家と貴族たちがごく短期間を除いて政治の実権からは遠ざけられながら、官位を授ける一個の権威として、また神道の祭司、文化の継承者として、存在し続けた、という事実です。天皇家は日本で唯一の王家であり、日本では遂に王朝の交代は起こりませんでした。そして歴代の権力者たちは朝廷から官位を授けらて初めて正当の統治者として認められることになったのです。関ヶ原を制したあの徳川家康でさえ、源頼朝以来400年ぶりに関東の地に幕府を開く為には朝廷から秀吉が手に入れることが出来なかった征夷大将軍の官職を授けられるのが必須の条件でした。
天皇家が途絶えることなく現在に至るまで存続し続け得たのは、武士の勃興期、源氏が「清和源氏」と称し、平家が「桓武平氏」と称して、自分たちの名誉心の拠り所を天皇家との(多分に架空の)繋がりに求めた、というのがその一因であったと思いますが、とにかく世界に類を見ない王家の在り方であり、私は日本史の要かなめであると思っております。
そして明治維新という極めて日本的な不思議な革命に於いて、もし天皇家が存在していなければ、明治維新は現実に起こったことよりもずっと悲惨な血みどろの内戦になっていたか、あるいは日本は封建制を打破して近代国家へと脱皮することができなかったでしょう。
さて明治維新の思想的背景や尊王攘夷のスローガンから大政奉還・江戸城無血開城・版籍奉還に至る流れは、ドイツのプロシャやイタリアのサルディニア王国による国家統一運動などとも比較しながら日本の蘇生 で長々と述べておりますが、ここではそれは省き、天皇を語る時に避けて通れない「天皇の戦争責任」について触れたいと思います。
日本だけでも310万人が亡くなったあの戦前の悲惨な戦争に於いて天皇に戦争責任があったと思うか、と問われれば多くの人が「無いとは言えない」と答えると思います。日本国を統治した君主であり、陸海空軍を統帥した大元帥であった昭和天皇の戦争責任は免れ得ない・・・。
ところが調べれば調べるほど、昭和天皇は終始戦線の拡大に反対なさり、「憲法遵守・国際協調を旨とせよ」と側近に言明なさり、陸軍の独走に怒り、お立場上許されうる限りの手段を用いてある時は正面から、ある時は密かに、軍部の暴走を押さえようと努められておられたのです。
陛下はおそらく当時の大多数の国民よりもはるかにレアリストであり、合理主義者であり、ご自分を神であるなどとは一瞬たりとも思ったことがなく、また近代国家における憲法の重要性と、その憲法の下での立憲君主制における君主の在り方を強く意識しておられました。
だから2,26事件で青年将校たちが、憲法の停止や軍事政権の樹立、そしてなによりも彼等が神と仰ぐ天皇の親政を求めてクーデターを起こした時に激怒なさったのです。
「今回のことは精神のいかんを問わず不本意なり。国体の精華を傷つくるものと認む」
「朕自ら近衛師団を率い、此が鎮圧に当らん」「馬を引け!」と。
このクーデターを未遂に終わらせたのは、この天皇の激しい怒りでした。
私も明治憲法の条文を調べてみたのですが、第一条や第三条
「天皇は神聖にして犯すべからず」
を読めば明治憲法下の日本は天皇主権であり、天皇は絶対権力者のように受け取れます。したがって、天皇は日本の行った戦争をその大権で止めることができたはずであり、天皇の戦争責任は免れがたいということになります。
しかし一方で、明治憲法の第四条には、
「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」
とあり、天皇といえども憲法を最高規範とする法に従わなければならない、と明記されており、また、ベトー(君主の拒否権)を認める条項がなく、議会を通過した法案への署名を拒否することもできません。
また、三権分立が明確に確立されており、さらに五十五条、五十六条では、政治的主導権を内閣に認め、責任も内閣が負っていると規定されています。
要するに、解釈によってどちらとも取れる曖昧さが明治憲法にはあるのですが、しかし考えてみれば、憲法とは、そもそもイギリスのマグナカルタ以来、選挙で選ばれたのではない君主の権力を制限するために制定されるのであり、一国が憲法を持つということは、君主・元首であっても法には従わなければならない、ということを意味しています。それがつまり、日本が近代国家となった証なのであり、そしてそれを誰よりもよく理解し、認識していたのが昭和天皇ご自身でした。
日本の蘇生 では日本の15年戦争を昭和天皇のご即位から終戦までに焦点を当てて書いてみましたが、そこに私は戦前の国民が全く知れ得なかった、そして戦後もずっと秘されていた、側近たちの日記や手記や証言などから伺われる昭和天皇の真のお姿を求め、何故天皇の大権で戦争の遂行を止めることが出来なかったのか、を考えてみました。
それを書き出すと余りに長くなってしまうので、ここでは一つのエピソードだけをご紹介したいと思います。
「 満州事変の後、中国で反日の気運が高まったが、特に上海で激しい抗日運動が起こっていた。満州事変の翌年一九三二年一月には、中国政府は国際連盟に日本を提訴する。国際社会からの孤立と中国奥地への戦線の拡大は、陛下が恐れていたシナリオだった。陛下は二月、上海派遣軍司令官に任じられた白川義則大将に直接次のように伝える。
〈「条約尊重、列国協定を旨とせよ」「それからもう一つ頼みがある。上海から十九路軍を撃退したら決して長追いしてはならない。三月三日の国際連盟総会までになんとか停戦してほしい。私はこれまでいくたびか裏切られた。お前なら守ってくれるであろうと思っている」〉(昭和天皇独白録 解説より)
白川大将は、この天皇の言葉を忠実に守り、三月三日、日中紛争審議のための国際連盟総会開会の当日、陸軍中央の反対を押し切って、戦闘中止命令を発した。これにより、国際連盟の日本に対する空気は一挙に好転し、中国側との間に停戦協定が成立した。
しかし、その直後の四月二十九日、天皇誕生日の式典で、朝鮮人テロリストの投げた爆弾によって、白川大将は亡くなった。
戦線拡大に走る若手将校たちを抑えて停戦命令を発し、それに従わせるのがいかに困難なことか、天皇にはわかっている。その死に涙し、悼んで一首を詠み、未亡人に賜わったのが次の御製である。
靖国神社に参拝して白川大将の三月三日上海にて停戦命令を発して
国際連盟の衝突を避けしめたる功績を思う。
乙女等が 雛祀る日に戦いを
止めし勲 思い出にけり
三軍を率いる大元帥の立場にある天皇が、戦いに勝利したことではなく、戦いを止めたことを讃え、軍はそれに逆らうがごとく深く中国の奥地まで戦線を拡大していく。
多くの日本人が「天皇のための戦争である」と信じ、「天皇陛下万歳」と叫んで戦死していったと言われる、この日本の十五年戦争において、天皇が終始「憲法遵守」「国際協調」「戦線の不拡大」を唱え続けたことを、軍の上層部はあえて無視し、国民は全く知らなかった。戦線は天皇の意志に逆らって拡大の一途を辿り、天皇が予期したごとく悲惨な敗戦を迎えた。(日本の蘇生 より)
最近私は白川大将のご親族の方から、この御製が軍部に握り潰されることを怖れた陛下が最も信頼する、終戦の時に総理を務めた鈴木貫太郎侍従長を通して白川家へ届けさせたこと、そしてそれは鈴木侍従長の添書と共に白川家に大切に保管されている事を伺い、ずしりとした歴史の重みを感じました。
立憲君主制の下の君主として、専制にならぬよう常に自己を厳しく律していた天皇が、言わば超法規的にご自身の決断で事を決せられたことが二度ありました。二・二六事件と、終戦の御聖断で、二・二六事件では、岡田首相の生死が一時不明で、内閣が機能しなくなったからであり、終戦のときは重臣の意見が二つに割れ、天皇の裁断が求められたからでした。この二度のご決断は、二度とも極めて重大な局面で国家を救うものでした。
ポツダム宣言の受諾を巡って御前会議が揉めに揉めた時、あくまで徹底抗戦・本土決戦を叫ぶ陸軍参謀本部や若手将校たちを抑え得たのは、天皇の二度にわたる御聖断でした。
そして二度目の御聖断では・・・
「天皇のこのスピーチの途中から、ここかしこに嗚咽と号泣の声が高まったと伝えられるが、二度の御聖断において、昭和天皇は自分一身よりも国家と人民を大切に思う君主の理想的在り方を示し得ている。この君民一体の姿というのは東洋的な価値観であり、ソ連軍に包囲されたベルリンの総統府官邸の地下壕で愛人と共に自殺したヒトラー、議会から罷免され逮捕され、最後は逃走中、パルチザンに銃殺されたムッソリーニとの違いは大きい。(同上)
さて最期に昭和天皇の御退位について考えてみたいと思います。天皇が訴追もされず、退位もなされず、国民に対する説明もなかったことに、どこか割りきれぬ思いを持ち続ける方たちもいることでしょう。
1998年に出版された「昭和天皇二つの独白録 日本放送出版協会」に次のようないきさつが語られています。
「1948年11月、東京裁判判決の前、陛下は退位を希望され、「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」と、そのお気持ちを側近達に漏らされていたようである。 宮内府長官田島道治の日記では、何度も退位の気持ちを洩らし、田島長官が留意させたとの記載がある。
それに危機感を感じ、思いとどまっていただくべく、動いたのは、マッカーサーだった。天皇の退位は政治的に完全な破綻状態を招く、と判断。遂にマッカーサー自身が動き、吉田茂首相を通じて天皇に退位を思いとどまるよう説得を行い、書面による保証を求めたようである。書面は1948年11月12日付け、宮内府長官田島道治の名前でマッカーサーに送られた。それは天皇の親書の形をとっていた」(日本放送出版協会 「昭和天皇二つの独白録」)
そして、その時起草された、と思われるのが、2003年文藝春秋誌上で発表された、
「昭和天皇国民への謝罪詔書草稿」です。
「前略 戦傷ヲ負ヒ 戦災ヲ被リ 或イハ 身ヲ異域ニ留メラレ、産ヲ 外地ニ失ヒタルモノ 亦 数フベカラズ、剰ヘ 一般産業ノ不振、諸価ノ昂騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル 億兆 塗炭ノ困苦ハ 誠ニ 國家未曾有ノ 災殃トイウベク、静ニ之ヲ念フ時 憂心 灼クガ如シ。
朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ。 後略 」
昭和天皇とその戦争責任に関してはそれぞれの思想や考え方によって見解が分かれ、色々な文書への見方や解釈も様々です。
ただ私はこの「詔書」を読んで、単なるレトリックを超えた、昭和天皇しか表現し得ない心の叫びを感じました。戦争による国民の艱難辛苦に慟哭し、我が身の責任の深さを思って懊悩する、そのお気持ちが滲み出ている、と感じるのです。
昭和天皇という一個の人格に関してはこれからも時々触れてみたいと思っております。
2030年に向けて、日本の外交と安全保障はどのようなかたちが望ましいのでしょうか。
私の希望は下記のようなものです。
「二〇一二年アメリカにウィルソン大統領が誕生した辺りから、世界情勢は徐々に落ち着きを取り戻していった。ウィルソンは中東とアジアからの米軍の撤退を進め、二〇一五年には日米安保条約を解消した。日本の米軍基地は徐々に縮小され、北東および東南アジアの安全保障は、中国・朝鮮連邦・日本を中心とした集団安全保障へと向かった。
そしてその過程で、これまで対米従属以外の外交の選択肢を持たなかった日本が、次第にその主張を鮮明にし始める。実際日米安保によって中国と北朝鮮を仮想敵国とし、アメリカの核の傘に守られていた日本がアメリカへの配慮から国際社会で主張できなかったことはいくつかあった。
その一つは「核の廃絶」への積極的な取組である。これまでも日本は確かに核の廃絶を国連の場で訴えてきた。しかし、アメリカの核の傘に守られ、原子力潜水艦が寄港する日本が、それを主張しても説得力に欠けた。核廃絶論者のアメリカ大統領ウィルソンと共に日本が進めたのは核保有国への核廃絶の訴えだった。そして、被爆の悲惨さを訴え、「核拡散防止ではなく廃絶を」と訴える日本の主張がようやく核保有諸国の国民に浸透し、共感を集めた。これらの国の政府もその声を無視できなくなっていった。
そして、遂に二〇二〇年、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国は、二〇三五年までの核の廃絶を定める条約に調印したのである。
日本はまた、地雷、クラスター爆弾、劣化ウラン弾を初めとするあらゆる種類の非人道的兵器の廃絶への国際的な取組にも積極的に参加した。二〇一八年には、京都で「非人道的兵器廃絶のための国際会議」が開催され、条約の作成にこぎ着けた。現在、この条約を百六十か国以上の国が批准している。京都会議には世界中から多くのNGOが参加したが、中でも日本の若者たちのこの問題への積極的な取組が目立ったと言われた。
アメリカの覇権力の衰えと共に、国際紛争の調停機関としての国連に再び世界の期待が集まったが、その改革においても日本の積極的なイニシアティブは目立った。国連の常任理事国は、世界の各地域の代表国で構成されるべきである。また、常任理事国はその地域の平和と安定に責任を負うが、拒否権は与えられるべきではない。というアメリカや日本の主張は、やがて国際社会の中で多数派となって国連改革の流れをつくった。その結果国連は、世界の平和を維持するための公平・公正な機構として、より強力になり、世界各国の信頼を集めるようになってきているのではないだろうか。
ウィルソン大統領と大久保に共通して見られた政治における理想主義は、世界が長い間忘れかけていたものだった。市場原理主義というイデオロギー、テロとの戦い、という奇妙な戦争。それが世界中至る所で社会を分断し、憎しみを増幅させ、対立を煽り、世界を不安定化させた。世界の行く末に大きな不安と不気味さを感じていた人々が、彼らの政治姿勢に未来への一縷の希望を感じたのは自然な流れだったように思われる」。(日本の蘇生 より)
2007年2月、ノルウェーのオスロでクラスター爆弾禁止に関する国際会議が開かれました。世界49ヶ国が参加したこの会議で46ヶ国によって「2008年中にクラスター爆弾の使用・製造・移動・備蓄の禁止条約を実現することを目指す」という内容の「オスロ宣言」が採択されましたが、日本、ポーランド、ルーマニアの三カ国は採択に加わりませんでした。
なんと情けない、と私がある席で嘆いたら、さる情報通の方が言いました。
「これは反米の踏み絵なんだ」と。
確かにその時点でアフガンで、イラクで、この種の非人道的な兵器を空から大量にばらまいていたのはアメリカでした。
1951年サンフランシスコ講和条約によって独立が認められて以来半世紀以上が経つのにまだ国内には134か所もの治外法権の米軍基地があり、在日米兵の犯罪を裁く権利も無く、非核三原則を国是としながら核兵器を積載した艦艇の日本への寄港を認め、国際法違反の侵略戦争以外のなにものでもないイラク戦争に加担して自衛隊を派遣し、兵員や物資やオイルの輸送に協力している日本には「反米の踏み絵」は踏めない。日本は戦後すっとそうだった・・・。
もっとも翌年2008年5月、当時総理であった福田康夫氏の強い意向によって日本はクラスター爆弾全面禁止条約の賛成に回り、2009年7月には「クラスター爆弾禁止条約(オスロ条約)」の批准書を国連に寄託したのですが。
私は世界に向かって正論を延べ、NGOと連携しながら政府としてこのような問題に取組み、国際社会をリードしたノルウェーという国の在り方に羨望を感じました。こういった役割こそが私が長い間、日本が担って欲しいと願ってきたことでした。
私は日本のバラマキ外交には常に違和感を感じてきました。総理が外遊すると行く先々で気前よくばらまかれるお金は国民の税金であり、そこに援助する側の何らの理念もメッセージも無いため、私共はそれが本当にその国の人々の為になっているのか、あるいは何か訳の分からないブラックホールへ吸い込まれてしまうのか、よく分かりません。
日本人の智慧や技術力や財力を生かして、平和の構築、とか貧困撲滅、とか地球の環境保全、とかなにかテーマを決め、長期的な視野に立ってODAを行うことはできないのでしょうか。
そんな日本の姿に各国の国民が好意を抱くようになれば、それは日本にとってなによりの安全保障となるはずです。「軍事大国」になるよりもその方がよほど国民として誇らしい、と思うのは私だけでしょうか。
日本が安全保障を頼っている見返りにアメリカに支払う費用は、すでに100兆を超えている、といわれる売却不能な米国債も含めると膨大な額になります。日本を卑しくさせているこの従属関係からの自立を図るのは無論容易なことではありませんが、政治家任せにせず、国民がその意思を示すことがなによりも大事なのではないかと思います。
さて、アメリカから自立して日本が向かう安全保障とはどのようなものであるべきなのでしょうか。
「日米安全保障条約というのは、れっきとした軍事同盟ですからね。仮想敵国がなければ存在理由がない。日本には米軍基地が全国に百三十四か所もあり、東京にも八か所ある。これだけの基地と駐留経費に補助金など莫大な税金を提供するわけですから、国民を説得するためには、その敵ができるだけ強力かつ邪悪であることが望ましい。
その点、冷戦下のソ連はうってつけの存在でした。しかし、冷戦は終わった。仮想敵国は中国と北朝鮮になったのです。
中国と商売しながら、国民には台湾有事をちらつかせ、中国の軍事力の増強が日本にとって脅威であることを強調し、そのために日米安保は必要である、と世論を誘導する。独立が大事か、安全が大事か。大抵の国民は安全を取る。これではいつまで経っても日本のアメリカからの自立はあり得ないわけです」
(大久保の言葉)
そして
「アジアの国々は、政治体制も宗教も文化・伝統もそれぞれに違います。そこがEUとの違いで、宗教も仏教・キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・儒教・道教、すべてあります。そんな状態で統合できるのか、意味があるのか、という人ももちろんいます。
しかし、われわれの統合の意味は、それぞれの違いを認め合いながらアジアに平和と安定をもたらし、共に繁栄できるように助け合おうということで、もちろん、日本のための日本による武力に物を言わせての統合を目指した『大東亜共栄圏』とは全く違うし、中国の皇帝に臣下の礼を取った冊封体制とも違います。
加盟国は全く平等だし、内政干渉も一切受けません。ただ危険な独裁国家や平和を明らかに乱すような国家が出現した場合は、加盟国の総意でいろいろな処置を取ることはあり得ますが・・・」(同上)
また
「日本は中国・朝鮮連邦やアセアン諸国と連合し、集団安全保障体制を発足させたわけですが、中国はご存じのように、その前からロシア・インド・パキスタン・イランおよび中央アジアの国々と上海協力機構という多国間の安全保障の枠組みを構築していました。そして、アジア連合と上海協力機構は相互に連携し、ユーラシアの広い地域の安定に協力し合っています。アジア連合には、近くオーストラリア・ニュージーランドも加盟することになっており、今日本は非常に幅広い集団安全保障体制の一員となっているのです。また、ロシアは二○三五年までに核を廃絶するという条約を批准しましたが、これは、それぞれの地域から常任理事国を選出し、そして常任理事国といえども拒否権を持たない、という国連改革が功を奏したと思っています。条約を批准するか、国連を脱退するか、という世界の二百か国の声を大国といえども無視できなくなった。どんな軍事大国でも、もはや一国で、軍事力で覇権を維持することは不可能です。それが二十一世紀の、多局化した世界の在り方であり、私が国民に説いてきた日本の安全保障の在り方です」
「確かにアメリカが一国覇権を維持するためにどれほど国のかたちを歪め、国民生活を破壊したかを見ていれば、もう世界の覇権を握ろうなどと考える国は出てこないんじゃないでしょうか。それを祈りたいものです」(大久保とジュビエール)
ヨーロッパの殆どの国はNATO(北大西洋条約機構)とEUと、二つの安全保障の枠組みの中に入っています。EUは数百年の間戦火が絶えることがなかったヨーロッパの国同士が二度と戦火を交えないための統合体であり、集団安全保障の枠組みです。
それは日米安保のように決して対等ではあり得ない二国間の軍事同盟とは全く違い、例えば戦前同じ枢軸国の一員で連合国に敗れたドイツは、自国の国益に反するアメリカからの要求を呑まざるを得ない情況ではありません。例えばBIS規制だの時価会計だの、いわゆるグローバルスタンダードとしてアメリカが日本に押しつけてきて、この不況下日本の銀行や企業を苦しめている制度をドイツは受けいれなかった、といわれます。イラク戦争開戦時にもフランスを初めとする他のEUの国々と共に反対を表明しました。
私はかねがね、明治維新の折り、ヨーロッパの様々な制度を取り入れてヨーロッパ風近代国家に変身しただけでなく、一神教や帝国主義までを模倣し、アジアの国々に対しての蔑視感情を抱くようになり、やがてアジアへの侵略を始めた、というのが現在に至るまでの日本の最大の歪みだと思っています。
私が日本はアジアの国々と手を携えて、国際決済通貨を創設し、集団的安全保障の枠組みの構築に向けた努力をすべきだと考え初めてからもう30年以上が経ちますが、日本社会では一向にその気運は盛り上がらず、むしろ中国脅威論が巾をきかせ、先制攻撃論さえ唱える保守系政治家が目立つようになり、憲法九条を改正して軍事力を強化し、核武装をすべきだ、という意見が堂々と主張される風潮となってきています。一般的にも「難しい」と感じる国民の方が多いかもしれません。
ところが はじめに で触れたように、鳩山由紀夫氏が「私の政治哲学」の中で次のように述べているのを読んで大変頼もしく思いました。少し長くなりますが引用いたします。
「友愛」が導くもう一つの国家目標は「東アジア共同体」の創造であろう。もちろん、日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、それは紛れもなく重要な日本外交の柱である。同時にわれわれは、アジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならないだろう。経済成長の活力に溢れ、ますます緊密に結びつきつつある東アジア地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなくてはならない」。
「 日本が先行し、韓国、台湾、香港がつづき、ASEANと中国が果たした高度経済成長の延長線上には、やはり地域的な通貨統合、「アジア共通通貨」の実現を目標としておくべきであり、その背景となる東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力を惜しんではならない」。
「 軍事力増強問題、領土問題など地域的統合を阻害している諸問題は、それ自体を日中、日韓などの二国間で交渉しても解決不能なものなのであり、二国間で話し合おうとすればするほど双方の国民感情を刺激し、ナショナリズムの激化を招きかねないものなのである。地域的統合を阻害している問題は、じつは地域的統合の度合いを進める中でしか解決しないという逆説に立っている。たとえば地域的統合が領土問題を風化させるのはEUの経験で明らかなところだ」。
「しかし、われわれが直面している世界が混沌として不透明で不安定であればあるほど、政治は、高く大きな目標を掲げて国民を導いていかなければならない」。
「 いまわれわれは、世界史の転換点に立っており、国内的な景気対策に取り組むだけでなく、世界の新しい政治、経済秩序をどうつくり上げていくのか、その決意と構想力を問われているのである」。
極めて論旨明解なこの論文を、鳩山氏は次のような言葉で締めくくっています。
「今日においては「EUの父」と讃えられるクーデンホフ・カレルギーが、八十五年前に『汎ヨーロッパ』を刊行した時の言葉がある。彼は言った。
「すべての偉大な歴史的出来事は、ユートピアとして始まり、現実として終わった」、そして、「一つの考えがユートピアにとどまるか、現実となるかは、それを信じる人間の数と実行力にかかっている」と。
様々な問題を抱えて船出しようとしている民主党政権ですが、(今の時点で)これから総理になろうとしている人の東アジア統合体に向けてのこのような揺るぎない信念を知って私はこの度の政権交代によってようやく日本も未来に向かって歩み始めた、という実感を持つことができました。
尤も多くの国民がこの不況下、すぐ目に見えるかたちでの景気浮揚策や「バラマキ政策」の実行を求め、鳩山代表のこのような未来へのビジョンが実現に向けて動き出すかどうかは全く不透明です。
けれども、このような方向性は間違いなくこれから日本が進むべき道であり、歴史の必然であると信じております。
そしてその実現は、クーデンホーフ・カレルギーの言葉のように「それを信じる人間の数と実行力にかかっている」のです。
さて、アジア共同体 への実現のために、日本社会が取り組まねばならない課題があります。それは戦前の日本の15年戦争の、事実に基づいた冷静で客観的な検証です。
戦後の学校教育では明治維新以降の歴史、とりわけ昭和の最初の20年間の歴史を教えることを怠ってきましたが、これからアジア諸国との未来志向の友好関係を築いて行くためには、多くの国民がその思いを共有することが望ましく、その為には、戦前の日本が何故、どのようにして、第二次大戦という、今まで人類が体験した最も悲惨な戦争の主要参戦国となり、破滅へと至ったのか、を目をそらさずに直視することが大事だと思います。そのような考え方から、日本の蘇生 前半の歴史の部分では、明治維新以前より以降の方が遙かに長くなっています。
江戸中期の国学の勃興から昭和20年の敗戦に至るその歴史の流れをここで辿ることはできませんが、その代わりにここでは日本の朝鮮に於ける植民地支配の実態が分かり易く書かれている一つの文章を引用いたします。
私も本を書いた時、日韓併合以降のことを色々調べたつもりでしたが、「皇民化政策」の詳細は知りませんでした。
今年の春、ある雑誌の記事の中の「昭和18年の時点で朝鮮では人口の80%の人が創氏改名を済ませていました」という記述に驚愕し、知人のジャーナルストの方に「植民地の殆どの人の名字まで強制的に宗主国のものに変えさせた、という例が欧米にもあったのだろうか」と伺ったら、その点に関してはよく分からないが、と、デジタル版世界大百科の 皇民化政策 の項をダウンロードして送信してくれました。
皇民化政策
こうみんかせいさく
日本の植民地統治の下で朝鮮人を戦時動員体制に組み込むためにとられた一連の政策。日本の朝鮮支配の基本方針は同化政策と呼ばれ,朝鮮人の民族性を抹殺し,〈亜日本人〉化することにあった。満州事変から日中戦争へと侵略戦争の拡大とともに,この政策はより強化徹底され,特に日中戦争以後はその極限化として,朝鮮人を完全なる〈皇国臣民〉たらしめんとする〈内鮮一体〉が提唱されるに至った。そのために展開されたのが皇民化政策である。1937年の日中戦争勃発とともに,神道による皇民化をはかるため神社参拝が強要され,1面(村)1神社計画が推進された。10月には〈私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス〉という3ヵ条からなる〈皇国臣民ノ誓詞〉が制定され,学校では毎朝これを斉唱させ,職場や家庭でも強要された。さらに38年2月には徴兵制への地ならしとして,志願兵制度が公布された。またこの段階では直接兵力の補充というよりも,皇民化の推進力としてのねらいが大きかった。また志願兵制度と表裏一体のものとして,〈兵員資源〉の裾野を広げるために,3月には第3次朝鮮教育令を公布し,〈内鮮共学〉を強調,日本と同じ教科書を使い,朝鮮語は正課からなくなり日本語の常用が強要された。生徒は相互に監視させられ,朝鮮語を使った友人を摘発するのが日課となった。翌39年11月には,天皇家を宗家とする家父長体制に朝鮮人を組み込むために,〈創氏改名〉に関する法律を公布,40年2月から実施された。朝鮮人はついに自分の名さえ日本式に改めねばならなかった。それは一応任意ではあったが,実際には強制で約80%が日本名に改めた。
このような政策の推進体として,38年7月国民精神総動員朝鮮連盟が発足し,総督府の行政機構と一体となった各地方連盟が組織された。またこれとは別に官公署,学校,銀行,会社等の各種連盟も作られ,一人の人が二重に組織された。その基底組織として約10戸を標準とする愛国班が作られ,39年には約35万の班と460万の班員が組織された。班員は世帯主なのでほぼ全人口が網羅されたことになる。これが民衆レベルでの具体的な政策の推進体となり,宮城遥拝,国旗掲揚,勤労貯蓄等の30項目が指示され,日常生活の細部までの皇民化が図られ,防共防諜のために相互に監視させられた。特に物資の配給が愛国班を通して行われたため,民衆は連盟に従わざるを得ず,生活は連盟の手に握られるようになっていった。同化政策を基本とする日本の朝鮮植民地支配の極限を示すものである。
宮田 節子
これが敗戦直前まで行われていた日本による朝鮮支配の実態でした。
「あの戦争はアジアを欧米の植民地支配から解放するための聖戦だった」などという人々が昨今叉増えていますが、彼等は支配された人々の側にたって日本の植民地支配を考えてみたことがあるのでしょうか。
そんな人々に限って、「アメリカ軍が占領直後、『ウォーギルト・インフォメーション・プログラム』戦争についての罪の意識を日本人に植え付ける宣伝計画 に基づいて、昭和20年12月には太平洋戦争史なる宣伝文書を各日刊紙に一週間にわたり連載。NHKラジオでも「真相はこうだ」として十週間にわたり放送し、その結果、日本人は独立自尊の精神や愛国心を失った」といういわゆる「自虐史観」を大真面目に主張するのですが、日本人とはこれほど他人に厳しく、自分に甘い人々なのか、と暗澹たる気持ちになります。十週間の洗脳で消えうせてしまうような愛国心であればそもそもその人には初めから愛国心などはなかった、ということでしょう。
あの戦争を肯定できない人=愛国心がない人
という定理が何故成り立つのでしょうか。もし本当に国を愛するのであれば、国が間違った方向に進み始めればそれにNOという勇気を、おかしな点はおかしい、と指摘する勇気を持つべきではないでしょうか。
外交・安全保障の問題から少しずれたようですが、極東アジアの地に位置して、有史以来、中国や朝鮮半島から滔々と流れ込んでくる豊かな文化を受容し
、それを日本人の感性で磨き抜くことによって類い希な美の世界を築いてきた日本が「アジアの中の日本」として近隣諸国との安定して友好な関係を構築してゆく為には、明治維新の時に抱いてしまった、中国や朝鮮やアジアの国々への全く謂われのない蔑視感情を克服することこそが大事だと思います。友好の輪 とは一人一人の国民の心の中に根ざして行くべきものではないでしょうか。
今の日本社会で何が一番問題かといえば、それは教育の荒廃だ、と考える人が私も周りには大勢います。
親殺し、子殺し、無差別殺人が日常茶飯事となり、なんとも痛ましい数多くの自殺者を出す社会はどんなに経済的に繁栄していても半ば壊れている、といってよく、間単に解決できない多くの深刻な問題を含んでいますが、一言で言ってしまえばそれは社会に於ける倫理・道徳の崩壊、ということではないかと思います。
新渡戸稲造が英語で「武士道」を書くきっかけとなっがのは、ベルギーの法学の大家 ド・ラブレー氏との次のような会話でした。
「貴方のお国の教育には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」
「ありません」
「宗教無しにどうして道徳教育を授けるのですか」
「当時この質問は私をまごつかせた。私は此に即答できなかった。というのは私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻孔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見いだしたのである」。(新渡戸稲造 武士道)
今、この「武士道」も社会から消えうせ、しかもそれは、日本の芸事と同じで元々が不文律であり、親から子への相伝の要素が強いのですから、現状では日本に於ける道徳教育は無いに等しいということになります。
日本の蘇生 では「和の空間が子供たちを変える」という一章を設けました。
ジュビエールが日本の教育改革に大きな足跡を残し、退職後郷里の京都で寺子屋を開いている津田桃子を訪れます。
「玄関を開けて入ってくる子供たちは、今までどこかで遊んででもいたのか息を弾ませ、頬を紅潮させ、皆元気がよい。しかし、自分の脱いだ靴を揃え、津田先生の前に座った途端、顔つきが変わる。きちっと両手をついて「よろしくお願いいたします」と澄んだ声を張り上げ、お辞儀する彼らからは小気味のよいある緊張感が漂う。そのままスッと立ち上がり、背筋を伸ばして畳の上を自分の席に歩いて行く姿には凛々しささえ感じられる。彼らをメタモルフォーゼさせるものは、この日本間の簡素で凛とした佇まいなのだろうか。
席に着いた彼らは鞄から硯を取り出してゆっくりと墨をすり始めた。授業が始まるまでの間習字をしながら待つ、というのがこの寺子屋の決まりのようだ。
津田桃子の提唱した寺子屋の復活は、今日本全国に広がりつつあるという。公立の学校でも和室を設け、正座をさせ、国語や習字を習わせるという教育が取り入れられつつある。それが子供たちの集中力や精神力を鍛えるという結果が広く受け入れられるようになったからだ」。(日本の蘇生 より)
津田桃子が始めた教育界改革の第一歩は まず自分たちの学校に和の空間をつくり、そこで子供たちに行儀作法、正座や日本間でのきちんとした挨拶の仕方、立ち居振るまいや敬語の使い方など、つまり日本的な礼法の基本を教え始めることでした。
「日本の文化では、理論よりも”かたち” というものをとても大切にするので躾の基本は礼法なんです。
例えば、スポーツにしても日本の場合、ただ強ければよいということではなくて、『礼に始まり礼に終わる』と言われる。だから私たちは、まずその”かたち” を子供たちに伝えるために和の空間を教育の場に取り戻そうと考えたわけです」。
津田桃子が教育に携わるようになったのは、日本の教育の現状に強い危機感を持つ、古文の教師である恩師の影響でした。
「 先生は、戦後の日本の教育が戦前の反動で日本的価値観を排除し続けてきたこと、日本人が一千年以上にわたって伝え、語り継いできたことを継承するのを怠ってきたことを指摘され、明治維新で文化が断絶してしまった日本近代の悲劇について語られ、昨今の国語教育がどんどんと貧困になってきていることに対する危機感を語られました」。
「 古典や近代文学も含めて、例えば、高校まで日本で教育を受けた日本人は、これだけは習った、あるいは皆これだけは暗唱している、という民族の共通の基盤をつくるべきだとずっと思い続けてきたの。日本人が育んできたこの豊かな世界を共有する権利が日本人にはあると思う。
どの民族にだって、その民族が愛着と誇りを持って伝え続けてきた民族の叙事詩というものがあるでしょう。いくらグローバリゼーションや国際化が叫ばれてもそれを抹殺することはできないはずよ。だから私はあなたたち若い世代にお願いしたいの。偏狭なナショナリズムではなく、われわれの共通の基盤、遺産としての日本語とその美を、そして、その価値観と美意識を語り継ぎ、受け継いでいくような国語教育をつくっていってほしい」(同上)
津田桃子が勤務していた○○学園は小学校から高校までの一貫校で、カリキュラムも12年間を一つの単位として組まれています。
小学校では「すべての学力の基礎は国語」という考え方から徹底的に国技中心で、二年生までは、様々なジャンルの本を朗読させ、読ませ、詩歌を暗唱させる以外は、音楽、図工、ダンス、演劇の創作や鑑賞といった情操教育が中心です。外でよく遊ばせ、ごっこ遊びをさせ、思う存分自然に触れさせます。
算数や作文の指導は三年生から始めます。徐々に子供たちの集中力を高めるように導きます。
四年生頃からは子供から少年・少女へと移っていく過渡期であり、少しずつ自分を客観視したり、自分の外の世界に目を向け始めたり、子供によっては何か一つのことに熱中し始める時期なので、生い立ちの記や観察日誌を書かせたり、読ませる本もアンネの日記 とか 君たちはどう生きるか とか自分たちの外の世界へも関心を向けさせるようにします。また六年間を通して美しい詩歌を沢山暗唱させます。
十二歳から十五歳というのは人間の成長にとってかけがえない大切な時期、いわゆる思春期の始まりで、一人一人の個性も際立ってきます。その時期に大切なのは、何よりもできるだけ多くの美しいもの、普遍的なもの、本物に触れさせることです。東洋とか西洋にこだわらず、能や歌舞伎やクラシック音楽や劇の鑑賞、絵画や彫刻などの展覧会等に触れる機会をできる限り与えるようにします。そして古典では、何より万葉以来の和歌と芭蕉や蕪村などの俳句。漢詩など。中三から高二にかけては王朝文学の頂点である『源氏物語』と、中世が生んだ国民的叙事詩『平家物語』をじっくりと学ばせます。
日本人が何を美とし、何を大切に生きてきたか、この時期に触れさせることは大切です。
英語、数学、生物、化学、社会などは細かなグループに分け、意欲的な子、能力の高い子はどんどん先に進ませます。
高校生になると、思考力、構想力、表現力、そしてなによりも自発性が重視されます。
高三になっても受験勉強一色ではなく、自由テーマで二万字程度の論文を書くことを要求され、そして
「 ○○学園では、他の学校の生徒たちが受験勉強に明け暮れる中、高校生になると生徒一人一人が卒業制作に挑むということですね。小説や漫画を書く子、劇や童話をつくる子、句集を発表する子、物理学の実験に取り組む子、自分が設計しインテリアをデザインした家の模型をつくる子、友達と室内楽を演奏する子など、大変バラエティーに富んでいるそうですが、これはやはり十二年間の教育の成果、ということでしょうか」
「初等教育さえしっかりやるべきことをやっておけば、子供たちの豊かな個性は必ず伸びてくる、という考え方でやっておりますので。子供たちが何かに興味と目標を持って自発的に勉強を始めるとき、どれくらい力を発揮するか、私も毎年感動することがしばしばですね」。(同上)
個性について
「よく個性尊重と言いますが、初等教育において大事なのは基礎学力をしっかりと付けさせることで、『一人一人の子供の個性を伸ばさなければ』などという、大それたことを考えていると前に進めなくなります。
乱暴に聞こえるかもしれませんが、子供の個性などというものは、教育で伸ばせるほど生やさしいものではないのです。ただ同時に言えることは、子供たちを能力で差別しては絶対にいけない、ということです。子供はそれぞれ発達の仕方や速度が違うから、今これができないからといって、この子は能力がないなどと決め付けてはいけない。小学校のとき、ボーっと勉強も手に付かなかった子が、あるとき急に伸びてくる、というのはいくらでもある話なんです。教師が子供の個性をしっかり把握するのは大事です」。
歴史教育について
「日本史と世界史を分けず、一つの歴史として六年かけて複合的、立体的に教えていきます。そして、高三では十九世紀末、日本で言えば明治維新、海外では帝国主義やイタリア、ドイツの統一戦争、アメリカの南北戦争辺りから一年間かけてみっちりやります。特に日露戦争以後、現代までの日本と世界の動きにはしっかりと時間を取っております。現代史をおろそかにしてはいけません。子供たちはその学習を通して現代の世界の動きに興味を持ち、国際ニュースにも関心を示すようになる。視野の広さという意味でも大切なことです」
英語教育について
「すべての学力の基礎は国語で、それをしっかり鍛えれば、ほかの教科は子供たちが必要を感じたとき、興味を持ったとき、必ず身に付いていきます。日本語の構造上、確かに日本人は一般的に外国語の習得が苦手で、そのため国際社会において大変不利であるという思い込みがあるんですね。だから音楽などの英才教育と同じように、小学校時代から英語を教えた方が実践的である、と考える。しかし、時間が無限にあるわけではないから、われわれはその時間があったらもっと多くの漢字を覚えさせたい。名文を読ませたい。
○○学園では千九百四十五字の常用漢字以外に、さらに四百字ほど多く教えていますが、これは漱石や鴎外などを理解させるのに必要なのです。学力の基礎は国語、その人の論理や思想を形成するのも国語。まず、その基礎をしっかりと学ばせる。
英語は中学からで少しも遅くはない、と私たちは考えています。私たちはよく生徒たちに言うんです。『英語を何もネイティブみたいに話すことはないのよ。日本人の英語に日本訛りがあるのはむしろ当然。それより何を相手に伝えたいか、その内容の方がずっと大事なのよ』と。
事実、高度な国語の能力を身に付けている子供は、中学・高校で英作文を書かせても、英語の弁論大会に出ても、優秀なものなんです。
私も国際的に活躍している人、しかも欧米のエスタブリッシュメントたちと対等に交わり、仕事をしている人を何人か存じ上げていますが、彼らは概して語学は得意ではないですね。中にはどうしてこの程度の英語で? と首を傾げたくなるような人までいます。でもよく見ていると彼らには共通しているものがあるような気がするんです。
それは学問であれ、商売であれ、自分のやっていることへの情熱。そして、自分が属している郷土や祖国への深い愛情、誇り、それが相手に伝わって本当の心の交流が生まれていく。流暢な英語を身に付けても表面的な交流に終わったのでは先に進めません」
道徳教育について
「中学の三年間は国語の時間の最初の一〇分を論語の習得に当てています。仏教、神道と共に日本の精神文化の基礎となるものですが、普遍的な人としての道を簡潔に言い得ているという点で、これ以上の教材はやはりないと思いますし、日本の武士道も根幹にあるのは儒教的な思想なのです。長い人生、道を踏み外すようなことはあってはならない。それをしっかり植え付けることはとても大事なことです。日本にはご存じのように宗教教育というものが存在してませんから」。
教育者としての望ましい人間像は・・・
「私どもは国語教育の重要性を説き続けてまいりましたが、実は一番なってほしくないのは、視野の狭いナショナリストなんです。また、あまり自分自身でものを考えず、ムードに流されやすい付和雷同型人間にもなってほしくない。
日本語という母国語と日本人としてのたしなみや教養はしっかり身に付けていて、その上で広い視野を持ち、多様な価値観を受け入れ、自由で柔軟な発想を持てる人。 異文化に対して幅広い知識や教養や憧憬や尊崇の念を持つというのも大事なことです。どんな分野に進んでも大切なことだと思ってます」。
そして国として力を入れていることは・・・
「今、日本では教員免許の取得は医師免許や弁護士資格の取得と同じくらい難しい。大学を卒業した後、二年間大学院で学ぶことが義務付けられており、その後の国家試験に合格しなければ、教員として国公立学校で教えることはできない。しかし、一般サラリーマンの平均年収をかなり上回る収入が保障される上、教員という職業に対する世間の評価の高まりもあって、非常に難関になっているという。
教員になるには、知と情においてバランスが取れていること、判断力や洞察力において優れていること、幅広い識見と教養を身に付けていること、そして何よりも一人一人の子供に愛情を注げる人格であることなど、さまざまなことが要求されるが、奨学金制度も充実しており、向上心のある若者たちの意欲をかき立てている、ということである」。
そして教育改革の波及効果は・・・
「 教育の中に習字や剣道、茶道などを取り入れることは広く行われるようになっているようだが、もう一つの著しい変化は、各地方で学校が建て替えられたり新築されるとき、今までのように画一的な建物でなく、地方の伝統や特色を生かした校舎が建てられるようになっている点である。
日本の地方都市がようやく東京を模倣するのではなく、伝統や文化を生かした独自の町づくりをするようになってきた。学校の佇まいはその風景に調和して、地方地方の色合いを深めている。それはそれまでの日本の、つくっては壊す消費優先型社会から、資源や環境保護を大事にする、資源循環型社会への転換に伴うものでもあるだろう。
文部大臣のI氏は語る「学校の校舎が地方の伝統や様式を反映するようになってきたことを大変喜んでいます。政府も助成金は出していますが、しかしこれは国の政策というより、ごく自然な人々の意識の変化がそうさせている面が多い。学校に和の空間が多くなる、ということは日本人の礼節や価値観を取り戻すという点で、教育上計り知れない効果があります。一日一回畳の部屋で正座する。畳に手をついて挨拶をする。これだけでも子供たちの表情に何かしらの変化が現れる。不思議なもんだ、と思いますね」
「日本の文化というのは、理論よりもかたちを大切にする」
「日本の武道は礼に始まり礼に終わる」
津田桃子が言った言葉を私は思い出していた。そういった日本文化の基本的なかたちを子供たちにごく自然に身に付かせるために、今さまざまな試みが行われているようである」。
こと教育に関しては様々な考え方があって、ここに私が書いてきたことは無論私の全く個人的な「希望」に過ぎません。
全ての日本人が少なくとも9年間通う学校で何を習い、どのように伸びて行くか、その重要性は図り知れません。未来を背負う若者たちの為に、柔軟な発想と人間に対する深い洞察力に基づいた本当の意味での教育の大転換が起こることを期待したいと思います。